こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」店長の中島です。
蘇る記憶と言えば思い出の事だ。
そして思い出は、時間の経過と共に美化されていく
人間の脳の構造上、それは致し方がないことで、思い出すたびに僅かな自分にとって都合の良い改竄が行われ、上書き保存される
当時の主観の事実よりも、さらに研磨されピカピカになり続けるのだ。
俺は再び、思い出していた。
今日は個別の携帯にかかってきた依頼に対応するために茅ケ崎にやってきた。
前回茅ケ崎に来たときは、社用車で移動した月曜日だった。
その時は網元料理あさまるというところでシラスを堪能させてもらった。
あのシラスも美味かったので、隙あらば再訪したいと思っている。
そしてその前に茅ケ崎にやってきたのは、今週開業オープンする歯科医師との契約の打ち合わせに来た時だった。
その時、見つけたのが「食彩真こと」というお店で、平日のランチは火曜日と木曜日しかやっていないなかなか強気なお店。
価格帯も自信を表している価格で、その時はカラスミ入りのバラ寿司を注文した。
これもなかなか美味しかったのだが、その時、隣で他の客が注文した刺身定食の美しさに目を奪われた。
いけない、人の物なのに。
そう思う倫理観を吹き飛ばすほど、その刺身は新鮮に輝いていた。
奪ってでもあれを俺の胃袋に収めてしまいたい。
まるでギリシア神話の神ゼウスのように、人の物でも欲しければ是が非でも手にしたいという欲望を抱かせるに十分なキラキラとした表情を見せる刺身達
だが、目の前のバラ寿司を前にして・・・
「今日じゃない」
そう感情を押し殺した。
「I shall return.」
第二次世界大戦で日本軍に追われてフィリピンから脱出したときのマッカーサー元帥の言葉が思い浮かんだ。
次こそはあの刺身定食を手にしよう。
そう思い、その日は会計を済ませると・・・
「I will be back」
今度は映画「ターミネーター」の心持で店を後にした。
あれから2か月
口にできなかった記憶の刺身の輝きはその光度を増すばかりで、イヴに知恵の実を食べるようにそそのかした蛇のように、心の奥底からいつあの刺身を食べるんだとずっと俺を煽る声がしていた。
今日は火曜日、そして茅ケ崎
だとしたら今日しかない。
俺は店の入り口に入るとともに食い気味に刺身定食を注文した。
席に座る前のお冷もおしぼりも出る前なので、店主が一瞬唖然とした顔をしたような気がしたが、小島よしおよりもそんなの関係ない。
俺はひたすらあの日の残像を求めて待った。
そして出てきた刺身定食
記憶と寸分変わらぬ彩のある刺身の光沢は食欲をそそる。
さあて、何から行こうか。
まずは何も迷わずに赤出汁に七味を振りかけて・・・
ここまで思ったときに、急に七味の瓶を握る俺の手が止まった。
何も考えずに振りかけるか・・・
ちょっと前に考えさせられた話が脳内にフラッシュバックする
その娘がそこそこ好意を持っていた男性と食事に行ったときの話だそうだ。
鳥の唐揚げがおいしそうと思ったその娘が注文した唐揚げがテーブルに来ると、一緒にいた男性が何も言わずに唐揚げにレモンを絞ってかけたそうなのだ。
それを見た瞬間に、その娘はその男性はないなと結論づけたという話。
最初に聞いたときはずいぶんと厳しい話だなと思ったのだ。
唐揚げのレモンくらいでと。
そのまま、スルッとその話が脳内ですり抜けようとした時に、待てよと俺の思考が制止した。
いや、ちょっと待て。
何故、鳥の唐揚げに勝手にレモンをかけることにそれほどその娘は重要視したのだろう。
必ず理由は存在するはずだ。
俺自身は唐揚げにレモンがかかっていようがいまいが、どちらでも美味しく食べれるのでいいんだけど、それは今までの俺の生きてきた経験による自分の中の当然だからどちらでもいいのであって、目の前にいる相手の当然は違うかもしれないんだよな。
仮にだけれども、自分はそうじゃなかったとしても、相手がもしレモンアレルギーだったらどうだろうか?
折角食べたいと思って注文した相手はその時点で唐揚げを口にすることはできない。
レモンを勝手に絞るという行為はその可能性を考慮せず、自分が大丈夫だから相手も大丈夫だろうという自分の常識の押し付けを無意識にしているってことだよな。
そう考えると、その時点でその行為そのものがテーブルの上の唐揚げの範囲じゃなくなってくる。
もっと俯瞰した視点で見ると、見え方が大きく変わる。
一事が万事という言葉と同じで、他のシチュエーションでも同じことが起こりうる人の可能性が高く見えるのではないかと思えたのだ。
自分が大丈夫だから相手も大丈夫と無意識に思っているという事は、結構重要な事やシリアスな場面においてもその男性が当然こうでしょと思ったら、目の前の相手もそうだろうと勝手に決めてしまうため、相談もなく本当に重要なことすら勝手にやっちゃう可能性があるのだ。
なんでそんな大事な事相談してくんないの?て自分が思うようなことでも、相手が些末な事とか当然の事と判断したら、何も言わずにそれをやってしまう。
そこには相手にとってはどうかという視点が欠落しているため、もし一緒にいる時間が長くなればなるほどやり場のないストレスを抱える事が増えてくるってことだよな。
そう考えると、理解できる。
本質的に視点が自分主体しかないと伝えるような行為になってしまっているわけだ。
なるほどな、男性同士であれば生活を共にすることを考慮する必要はないので、本当に一時の共有だからそんなのどうでもいいで終わらせられるけれども、共有する時間が長時間という視点で見ればその一事が結構深刻な要素であるわけだ。
そう気づいたときに、三国志の公孫瓚の話を思い出した。
公孫瓚が袁紹軍と戦っているとき、公孫瓚の配下の武将で敵軍に包囲された者が居た。
その時、公孫瓚はこう言って救援軍を送らなかった。
「1人を救援すれば、後の大将達が救援を当てにして全力で戦わない様になってしまう。今、救援しない(見殺しにする)ことで後の大将達は肝に銘じ自ら励む様になる筈だ」
「また少数を助けるために援軍が犠牲者がでては算盤が合わぬ」
従っている家臣がどうかを考えず、自分の中の都合の良い発想で行動した公孫瓚はその直後袁紹に滅ぼされる。
そりゃそうだよな
家臣から見れば、危機が迫っているときに助けてくれない大将のために命がけで戦う武将などいない。
だから家臣たちは袁紹軍が来た時に戦おうとせずに我先に逃げ出したという。
相手がどうかという視点を欠落した行動は、身を亡ぼす
逆に言えば、国士無双と言われた韓信の用兵の話を思い出す。
ある時、老婆が大泣きしていた。
不思議に思った通行人が老婆に理由を問うと、こう答えた。
戦で足に怪我して膿が溜まっていた一兵卒の息子の膿を大将軍である韓信が口で吸いだして治療してくれたのだという。
通行人が、あの大将軍韓信にそうしてもらう事は名誉な事じゃないかと言うと、老婆はさらに泣き出した。
あの息子の兄も韓信に同じことをしてもらい、一兵卒の自分に大将軍がこんなことをしてくれるなんてと感動し、韓信のために死に物狂いになって戦って戦死した。
弟もきっとそうなって、息子を二人失うだろうと。
公孫瓚と対極の話だなと思うのだ。
そんな思考の大幅な寄り道をしながら、啜った七味の入った赤出汁が美味い。
そして、ついにまばゆい刺身に箸をつけた。
見た目通り、新鮮で、弾力も良い。
そしてちゃんと美味い。
小田原の漁港で食べたアジフライや刺身と同じで物凄く新鮮であることが伝わってくる刺身だ。
それと同時に思うのが、刺身は奥が深い。
いつも行っている馬車道のハナビシの大将のところは魚の寝かせが凄いのだろうな。
同じ素材でも後味の甘味が全然違う。
新鮮な素材の美味さという分野の美味さもあるし、このお店は素材の新鮮さを活かした刺身だ。
その新鮮な素材を上手く寝かせると、旨味成分や甘味成分が出てきて同じ魚でも刺身の味が全然違うのだ。
新鮮さの美味さと、技術の美味さ、同じ刺身一つとってもまるで別物。
手が込んでいるのは寝かせている方なんだろうけれども、それが改めて理解できたというのも良い一日だった。
満足げにうなずくと、俺は次の仕事先へと向かう事にした。
店の扉を開くと、そこには意外な人物が雨の中全裸で立っていた。
「兄貴、兄貴じゃないですか?」
一瞬、「全裸監督」という言葉と「全裸兄貴」という言葉が脳内で交錯した。
「どうしたんですか、茅ケ崎で全裸で立っているなんて。こっちは北口ですから海は南口ですよ。なんか着ないと捕まりますよ、兄貴。」
そう声をかけるも依然として兄貴は全裸で沈黙を貫いていた。
先日はルフィのコスプレしていたのに今日は全裸か、兄貴も忙しいな
そう思い近づいてみると、兄貴本人かと思ったら、よく見たら兄貴像だった。
なんだ、兄貴像か。
ネコ集めというゲームがあったが、どうやら俺は兄貴像の画像集めというフィールドワークに足を踏み入れてしまったかのようだった。
俺は兄貴像に別れを告げると駅へと向かった。
↑兄貴
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