こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」店長の中島です。
ファミコンゲーム「スーパーマリオ」にでてくるアイテム、「スーパースター」が大量発生している。
誰かが隠しブロックを叩きまくっているんじゃないか
そんな気にさせられる。
ゲームスーパーマリオではぴょんぴょんと跳ねながら移動するアイテム、スーパースターを取ると、一定時間無敵状態の無敵マリオになり、敵のあらゆる攻撃受け付けなくしたり、敵を触れるだけ倒せたりできる。
ファミコンでは無敵の状態はゲーム攻略するうえで有利で望ましい物でありはするけれども。
無敵の人
現実世界では2Chの創設者ひろゆき氏がこう呼ぶ人達が増えている。
無敵の人(むてきのひと)とは、社会的に失うものが何も無いために犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味する
本来人間は、逮捕されると職を追われたり、社会的な信用や自由を失うことから、犯罪行為に手を染めることを躊躇する。
ところが元から無職で社会的信用が皆無な人、経済力の問題で自由なようであって自由じゃない人には、逮捕されることがなんのリスクにもならないため抑止力が存在せず、その暴走を未然に止めることはできない。
以前の、まだ一億総中流と呼ばれた豊かな日本においては、その無敵状態そのものが特殊な状況だったので、自責と納得ができる部分も多く、攻撃性は自分自身に向けられて、自傷や自死といった結果になったとされている。
しかし、今の無敵状態の人を社会が作り出している状況においては、その攻撃性は自分を無敵の人にさせたという社会や他者に向けられ、無敵の人が起こす巻き込み事件が起きる。
大阪のメンタルケアクリニックの放火事件、京都アニメの放火事件、小田急の通り魔事件などが記憶に新しい。
本当に失う物が何も無い人ってのは、覚悟の面においても攻撃性を外に向けたら恐ろしい対象だ。
自分の生にすら価値を認めていないという究極の自己否定は逆に失う物がある人、守る物がある者に同じ絶望を共有させ、理解させようと、失う物がある事を許さずに消失させにやって来る
まだ強奪の方が所有者が変わるだけで、物自体は消失するわけではないから可愛げがあるなと思うけれども、無敵の人の望むものは誰かが保有するものの消滅だからな。
そんな中、あまりいい話じゃないので単に俺がアウトプットしたいだけなんだけれども、物凄く気に食わない事があった。
純粋に俺が吐き出したいだけで、あまりおススメできるネタじゃないので、嫌な話を望まない方はここまででそっとLINEを閉じて欲しいと思う。
丁度、先週の事だった。
仕事が終わった後、お店も休みだったのでいつも通りハシゴして飲んだくれていた。
その時に、物凄く珍しい人物からLINEが届いた。
そこには「お久しぶりです、元気してますか?」との一言
何年ぶりかに連絡してきて、なんだそれと思ったけれども、俺は返信し、今度その人物が働いているバーに一度も行っていないから、行こうかななんて思っていた。
テキーラばかり飲まされるらしいので、ちょっと尻込みしていたけれども、確かに一度くらいはテキーラで潰れる覚悟で顔出してもいいよななんて思い直したのだ。
しかし、自分から連絡してきたくせに、俺の返信に既読もつかず、返信もない。
相変わらず失礼な奴だけれども、「らしいな」なんて思っていた。
俺への謎ラインの後に、タイムラインには「ばいばい」なんて一言上げていて、男なのに究極のかまってちゃんだなとかその時は思っていた。
昨日の事だった。
たまたま店で酒を発注したので片づけに行った後、駅近くの「もつしげ」でやはりレバ刺しだよねとかレバ刺しを食べて、何回かだけ行ったことある駅の角のBARに寄った。
ふと時計を見れば21時を過ぎており、井岡一翔の試合を見そびれたなんて頭を抱えていたのだけれども。
オーナーバーテンダーさんもお互いほぼ面識はなかったけど、ハーパーの12年がもう飲めなくなるような話をして、そうかハーパー12年美味いものな、今度買っておこうかななんて思っていた。
そのオーナーバーテンダーにどうぞ一杯と言うとテキーラばかりを飲むのだ。
2杯目勧めてもテキーラだったので、そういえば17年前に生まれて初めて行った関内のBARにいた人がテキーラばかり飲まされるバーで今、バーテンダーやってるみたいなんですよねと店名を告げた。
すると、その前日にそこのオーナーさんが飲みに来たというのだ。
へえ、そこで働いている~~さん元気なんですかねと何気なく聞いたところ。
実はその方が亡くなったという話を、その方が働いていたバーのオーナーさんがしに来たんですよと言われて、言葉を失った。
えっ?先週LINE急に送ってきた奴が?
偶然とはいえ、そんなところでそんな訃報聞きたくなかった。
しかも、俺の返信無視しやがって、何がばいばいだよと急に腹が立ってきた。
きっかけ与えといて、思い出させておいて、しかも俺にノーチャンスかよと。
当事者からしたら最期だから甘えさせてのLINEなのかもしれないが、残された側からすりゃ一瞬でも違う結果になった可能性があったかもしれないという後悔のメンタルタトゥーを刻まれるだけだ。
ワンチャンすら与えられていない。
関内のBARにその方が勤めていた時に、その方のバースデーでその親御さんが飲みに来ていて、たまたま隣で飲んだことがある。
どんだけ親不孝すんだよと。
自分の視点だけで自分が何かから逃れたかったのかもしれないが、残ったその親御さんがこれからどう受け止めて生きていくのかを考えないのかよと。
親とか知り合いに突然物凄い傷跡を残して、後は知らないは勝手すぎるよな。
まだ30代半ばで何でもやれる年齢で。
病気やケガもハンデもあるわけでもなく。
故人を責めるわけにもいかず、一方的に通り魔に殴られたような理不尽さを拭えない。
それと同時の心の持ちようを改めて考えさせられる。
死ぬ覚悟もてりゃ、何でもできると思うのだよな。
それこそ、覚悟もっているなら今あるもの全部投げ出して、カード会社に金借りれるだけ借りて海外に逃亡してみたってよい。
好き放題やって、考え方が変わるかもしれないし、何かを見つけられるかもしれない。
すべての選択肢を消すような真似するなと思えてしまう。
以前にも記載したが、俺は世界はゲームの「ゼルダの伝説」と同じで、一見行き止まりに見えるかもしれないが、諦めずに謎を解き明かし、隠し通路を探せば必ず抜け道は存在すると思うのだよな。
簡単にゲームみたいにリセットボタン押すなよと、ゲームで言えば残機0でコンテニューできないんだから。
起きた事象は自分に都合よく解釈できるし、何故受け止め方をハッピーにしないんだろう。
たとえ最初はそうは思えなくても、究極の覚悟を持ったんだったら、無理やりでもいいから何が起きても自分はハッピーだと覚悟を持ってそう決めればいいじゃないかって思うんだよな。
他人に否定されようが、なんだろうがブレなければ自分の解釈が自分の真実であり事実だ。
そこに他者の、それこそ無敵の人が求めるような消失の共有は付け入るスキはない。
国民の97%が「私は幸せ」と答える世界一幸せな国がブータンと言われている。
「幸せかどうかは、自分の心が決めること。自分が幸せなら周りの人も幸せにしたくなります」というのが彼らの発想だ。
これって、高杉晋作の時世の句の下の句なんだよ。
「すみなすものは心なりけり」
結局のところ、すべては自分の心持ち一つということ。
冒頭で上げたひろゆき氏の別の言葉も同じだ。
まんま以下に引用してしまうけれども
楽しく生きられるかどうかは、与えられた見た目や才能よりも考え方次第です
学校では、テストの点数が高い子が先生に褒められます。
そして現実として、テストで高得点を取れる子は、人気や評価の高い高校、大学に進学できて、給料のいい会社に就職できるという傾向があります。
そのため、自然と「勉強ができるヤツ、スポーツができるヤツ、何かの才能を持ったヤツはよい人生を送るけれど、そうでなければ不幸になる」と誤解してしまう人が多いように思います。
自分は能力がないから、恵まれた環境にいないから、お金がないから、と自らをどんどん追い込んでしまう人がいるのも、こういったことが背景にあるのではないでしょうか。
ただ、才能にも収入にも恵まれ、ついでに見た目も美しい人が幸せな人生を送れるかというと、そうとは限りません。
はたからは「あんなに恵まれているのに」と見える人が鬱になることもあれば、人生を儚むことだってあるのです。
どんなにお金を持っていても、将来を不安視しすぎると幸せにはなれませんし、基本的には物事って、捉え方の問題だと思うんですよね。
つまるところ、幸せかどうかは、その人の考え方によることが大きいのです。
『五体不満足』で知られる乙武洋匡さんは、かつて小学校の先生として勤めていましたが、僕はこれをよいことだなと思っています。
手足がないという、なかなかきついハンディキャップがあるのに、幸せに楽しく暮らしている。
そんな大人を間近で見た子どもたちは、自分の人生において、考え方、捉え方がどれほど大切かを実感するはずですからね。
まさにこれなんだよな。
重要なのは自分がどう捉えるか。
斎藤一人氏も言っていたが、この世は天国という話。
ショッピングセンターに行けば、安全で清潔で綺麗な服や靴や鞄があって、美味しいものが食べることができる。
これが天国じゃなくてなんなんだと。
言われてみれば、確かにそうだよなと思うものな。
それを当たり前と捉えるか、天国と捉えるかで世界は様相を変える。
そんなことをぐるぐると考えさせられたが、それでも無敵の人と違って他者を攻撃するわけでもなかったので本質的には優しい奴だったんだろうなと思うのだ。
ただ、取った選択は物凄く気に入らなくて、昨日から腹が立って仕方がない。
一夜明け、残る側の人間達も日常の延長が始まった。
今日は大和で仕事だったので、元々狙っていた海鮮のお店でランチを摂ることに。
魚介亭という江ノ島が本店のお店のようだ。
滅多に行かないと思うのと、そこそこ人気の模様。
なので、気分転換もかねて海鮮丼の少と日替わりのランチ握りを注文するという暴挙に。
普通の海鮮居酒屋としては結構なレベルの新鮮さで美味しかった。
酢飯の酢が強く、昔の寿司屋の味がして高齢層に大層人気。
席のゆったり感、味、価格帯、雰囲気、鮮度
どれをとっても丁度高齢層にハマるのだろうな。
絶対に再リピートだという決意を抱くほどにはなれなかったが、ちょっと魚を食べたいときにチェーン店を選択するよりいい魚を食べれると思う。
大和駅で店選びに迷ったときの選択肢には必ず入るとは思うけれども。
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