こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
ちょっと前に意味が分かると怖い話という話集みたいなのがあった。
結構人気なコンテンツのようで色々まとめ集なんてものがある。
それと似たようなことで後からハッとすることって結構あると思うのだ。
ネットで検索してみたらこんな感じのコンテンツで、一般的にはこういったのでグーグルアドセンスの広告費を稼いでいる人が多い。
そのために、Yahoo!のリスティング広告を買ったりするくらい。
まあ、そんなわけで意味が分かると怖い話みたいに何気ない一言に後から待てよとハッとさせられる事って現実にも結構あるよなと。
なんだかんだ言っても営業も20年近くやっているし、幸いにして大きな詐欺などにも引っかかったことはない。
自分で言うのもなんだけれども、結構本質は何かを意識しているので俺は警戒心はかなり強い方だと思うのだ。
言い換えれば致命傷を負いかねない事は絶対に避けるようにしている。
何でもやると言っているのと矛盾しているように感じるかもしれないが、望まぬ事が起きてもかすり傷だなと思う事には恐れないが、重傷を負うかもしれない事はやはり慎重になっている。
恐れるべきものは恐れたほうが正しいと俺は思うしな。
恐れるべきじゃないことを恐れるのは間違っているが。
そんなか、今から20年位前、俺が社会人になってすぐ位の頃。
死ぬほど仕事ができなかった時に初めてホームページを作った事がある。
ホームページビルダーってソフトだったかな。
その時の文章による情報発信で、実は結構友人が増えた。
いや、というよりも大部分の友人の俺に対する誤解が解けたといったニュアンスの方が正しいかな、
20代前半の俺はコミュ障だったこともあり、素のまま自分の無意識の情報発信が、とんでもないイカレた奴という情報発信になっていたようで、学生時代のサークルの友人などからは何考えているかも理解できないモンスターみたいに思われていた節がある。
けれども、なかなか人は自分が考えている事なんか言葉に出してわざわざ言わないものだが、文章であれば別に発信すること自体は異常なことでもないし、自分が読んで内容が自分で分かるように発信しているつもりなので、当時の素の俺が発信する情報よりも何を考えているか明確で、理解できないとんでもないモンスターではないという、周囲から理解できない物に対する恐怖という霧が取っ払われたのだと解釈している。
前置きが長くなってしまったが、その時に記載した20年前の俺の記事で人には意図の目的地があるような内容を記載した。
その時の一節がこれ
人は何でそんなことを言ったんだろう?
理由がないことは人はやらない。
必ず、人が行動するには理由がある。
俺自身が意味のないことを言うときにも意図がある。
それは、これ言ったら面白いのではないかと思う意図だ。
であれば同様に、どんな行為、言動でも、人間が行うかぎり動機が存在するのではないか。
その動機は一体何かを考えるんだ。
と当時から人間の言葉、行動には必ず何かしらの意味があると思っていた。
確かに俺自身も何も考えずに発する情報もあるんだが、違う下記のネタでも記載したけれども、俺にはラッキーしか起きないという無意識に対する刷り込みと同じで、無意識って普段自分が自分をどういう人間だと思っているかの本質的な情報を出している気がするんだよな。
だから無意識こそ本質なのかもしれないとか最近は思ったりもするけれども。
ただ、言葉は意識的な物も多く、その意識した場合の人の意図は結構考える。
そして、40年近く生きていれば、人の経験則や自分の経験則で意図は大きく何パターンかに分けられる。
悪人パターンの場合はこうだなとか、善人パターンだった場合はこうだろうなとか、普通パターンの場合はこうなるよなとか。
そしてその後の行動でその時の発言の意図とその人の属性というか、人間性が見えてきたりするなと思うのだ。
テストの答え合わせ的な感じでだけれども。
それこそ冒頭で上げた意味が分かると怖い話の様に。
で、いまだに本題に入れていないのだけれども、今日、最近あったことで、「おや、ちょっと待てよ」と意味が分かると怖い話的なことに気づいたんだよな。
その話のまだ本題前の前提が続くのだけれども。
前提は2つある。
一つは他界した我が父の話だ。
父が生前、どんなに親しくてもどんなにいい人そうでも仁義系の方とだけは付き合うなと何度も言われた。
正直、当時の俺は自分が警戒心が強いことも分かっていたし、人に騙されるなんてありえないと過信していた。
だからその時の親父の言葉を軽く考えていたんだよな。
いや、多分当時から騙されないんだろうけれど、それでも俺が騙されるはずないし、警戒していれば大丈夫なんて思っていた。
けれども、今になると親父のその言葉が頭の片隅に残っていたからこそ、気づけたことも多々ある。
冷酒と親父の小言は後に効くとはよく言ったもんだなと。
この20年以上前に何度も聞かされた言葉があったのだが、ほんの数年前、強烈にその言葉を思い出させられる事があった。
それが前の会社の取引先の社長さんだ。
たまに仕事を発注していたこともあり、強面でプロレスラーみたいな体をしている人で、結構社員には責任がある分厳しい社長だが、俺の様に仕事を出す営業にはちゃんと礼儀をわきまえている人で余計なことも言わない人だった。
この方今だと45歳くらいだろうか。
数年前の事だが、この方が新しく産廃の会社を作ったときの話だ。
どう見ても昔はやんちゃだったその方が、18歳から20年以上お世話になっている兄貴分のような仁義系の方がいた。
18のお金のない小僧の時から飯を食わせてくれたり、20年以上お世話をしてくれていた方のようで、この兄貴と社長さんは産廃の会社を一緒に作ったらしいのだ。
ところが、産廃用に購入した3000万くらいする山は実質二束三文で、結局この社長さんは3000万円だまし取られ、裁判沙汰になっている。
どう考えても裁判で勝ったとしても回収できないだろうし、国の規制で衰退産業で売り上げも落ちていそうな状況下で、正社員である従業員とその家族の生活を守らなければいけない立場として、自分の判断の過ちで従業員を路頭に迷わせるかもしれない事にかなり自分を責めて、抗うつ剤とか再度飲むようになってしまったらしいのだが。
その話聞いて、あんなに俺が束になっても敵わなさそうな強そうな見た目と身体なのに、心は俺よりも弱いかもなとか一瞬思ったもんな。
で、この話を聞いたとき、親父の言葉がよみがえってきたんだよな。
どんなにいい人に見えても、親しくしても仁義系の方だけとは付き合うなという。
で、その瞬間気づいた。
そうかと。
生きている世界が違うので、俺の発想にはなかったが、世の中昨日も記載したが、目に見える物よりも目に見えないものの方が価値が高いことが多い。
そして価値が高いものは換金できるんだよな。
俺と違う世界の生きているその方々は、実際は人の縁を換金するのがビジネスルールなんだと気づかされたのだ。
だから、そういった18くらいからの若造にばら撒いて、縁を紡ぎ、その中で豊かに育ったものをいつか必ず換金するのだ。
人の縁が商品であり、それこそ牧場の家畜の様に、酪農家がいくら思い入れがあるかわいがった牛でも豚でもいつかは自分が生きるために出荷しなければならない。
あの世界の方々は人間で畜産業をやっているのではないか?
つまり、人間として人を見ていない。
そういうルールの世界なんだとこの20年間の縁を換金されてしまった社長さんの話を見て思ったのだ。
一般的には当たり前じゃないことを当たり前のようにふるまい続ける事
あまりに頻度が多いと、人はマヒしてしまい、いつかそれが当たり前になる。
けれども、そうなったら今度断れなくなる。
当たり前じゃないことを当たり前によくしてくれるというのは、その人の意図を考えながらそれが常に当たり前じゃないと線引きしておかないと、もし違う世界の住人だった場合、換金されてしまうのだよな。
でも、人の行動や結果を見ていても、それ当たり前のようにしてもらっているけれども、当たり前の事じゃないよと思う事は多い。
でも線引きをせずに当たり前じゃないことが当然にしてしまった人から、約束のネバーランドで言う出荷をされてしまうのかもしれない。
で、ここまでが本題に入る前の前置きという長ったらしい話なんだけれども・・・・
ちょっと前の話
尋常じゃないバラマキをする人がいた。
どう考えても使う金額が一般的じゃない。
で、その場で会った酒場の人がお店をやっていると言うと、そこに飲みに行こうと言ってそこでもバラまくのだ。
どう考えても当たり前ではないことを毎回やって、その人にとっては当たり前なんだと思う人が増えていく中で、俺は一般的に当たり前ではない事は当たり前ではないと線引きをすべきだと思っていた。
もし、住んでいる世界が違う人だった場合、その意図は俺の換金になる。
それはなかなかリスクのある話で、かすり傷で済まない可能性が高い。
だからこそ、どんな富裕層にふるまわれようが、一般的に当たり前ではない事は当たり前としては認識してはならないと思うのだ。
それこそ、公園にハトに餌を上げていてもずっとじっと手に餌を持っていると最初は警戒していたハトもそのうち逃げもせずに自分の手から餌を啄むようになる。
人間も同じで、慣れてしまうと当たり前じゃないことを当たり前と認識するようになってしまうのだ。
で、俺もご相伴に預かったときの事
使いすぎだという話をすると、その方は「いいんだ、これも縁で投資なんだから」と仰った。
その時はまあ、酔っぱらった頭で確かに人の縁を紡ぐことも人生の投資にはなるよななんて簡単に考えていたのだが・・・
ふと、その言葉を最近急に思い出し、一瞬「投資?」と疑問符がわいた。
そこで投資を調べてみたんだが、投資とは、主に経済において、将来的に資本を増加させるために、現在の資本を投じる活動を指す。広義では、自己研鑽や人間関係においても使われる語である。
投資ね、その言葉はどうとでも考えられるのだけれども。
もし考えられるパターンで最も恐れるべきものだった場合、その一言が意味が分かると怖い話のまんまじゃないかと一瞬思ったのだ。
そして、別の飲み屋の大将がよくその方に返礼をしていたなと思うと、百戦錬磨のその大将は俺より分かっていて、餌をもらうだけのフォアグラではなく、自分はやせ細った家畜であり、ネズミを捕る猫として受け取るばかりではないと主張していたのかもしれないなと。
この最恐パターンでないことを願うばかりだが、慣れや甘えってのは隙になるやもしれず怖いね。
そして、ここまで記載して思ったけれども、この話って考えようによっては反転するよなと。
どういうことかというと、俺自身が警戒心が強いので自分が罠にはまらないように、お金を使ってその人がどういう人か見極めようとすることは多い。
でも、俺の意図は自分が出荷されないための事前の振り分けなんだけど、人によっては俺が人を換金しようとしているように意図に見えてしまうのだろうか。
なんかそんなことを思わされたんだよな。
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