こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
日常生きてきて、この人トークが上手いとかこの人トーク下手だなって皆さんもあると思う。
そもそも、俺は20年営業やっているのに30代前半くらいまで究極がつくに近いレベルでコミュ障だったと思うのだ。
何しろギャンブルの話くらいしかまともにできなかった。
営業先でも仕事の話しかできなかったし、超強力な営業のライバルが来ると、その営業のトーク力に負けて競合他社に契約されるなんてこともあった。
ただ、当時の俺は技術営業だったので、納品の段取りとかの安心感でリピーター獲得でどうにか数字をあげていたのだけれども。
しかしながら、実際に俺にはラッキーしか起きていないなと思うんだけれども、仲良くなった競合他社との棲み分けで案件取っているうちに、コミュニメーション能力が高い営業と触れる事で本質が分かってきたんだよな。
とはいっても、致命的なコミュ障レベルからスタートしているので、人様に教えることができるようなレベルではないんだけれども、借り物の人の言葉ではない俺の実体験なので実際に今もコミュ障だなと自覚のある人には役に立つかもしれない。
そもそもトークなんだけれども、話が上手いのとコミュニケーション能力があるのはまるで別の話なんだよな。
話が上手いのはテクニックであって、重要なのは話の内容にになる。
テクニックがいくらあっても話の内容がつまらなければそれは結果的にコミュニケーションとしては失敗となってしまう。
じゃあどんな話なら面白いかということなんだけれども、これは別に笑い話とかでもなんでもなくて、会話している人の興味がある話だ。
二人だったら相手の興味のある話
三人だったら皆が共通の興味のある話。
逆に言えば、絶対にやってはいけないと思うのが、相手が興味がない話をする事。
人は自分が興味がない話を聞かされるのが一番苦痛だという。
でも実際にそうだなと思うのだ。
よく将棋や麻雀やスポーツでも自分の手の解説や解釈の説明なんかをする人がいるけれども、誰もその人の解説なんか求めちゃいない場合は騒音をまき散らされているに等しくなってしまう。
でもそれもパターン分けされていて、その人に共感できたり、その人に興味がある場合は別だ。
けれども、相手が自分に興味がない場合は、自分の相手にとってどうでもいい話をすることや自分の主張をすることは相手を監禁しているのと変わらないと思うのだ。
例えば、俺が昨日肉まん食べました。
俺が社長に褒められました。
俺は昔ワルだったと言われてたんだよ。
俺のペットの~が世界で一番可愛い
そんな話をどこでもしたら、おそらく地獄の拷問のような扱いを受けるだろう。
何しろ、相手に地獄のように苦痛な時間を提供している。
仮に、これを親とか彼女とか俺に興味がある人間に話すなら別だ。
興味があるからそれで?続きは?となる可能性がある。
けれども、俺がこんな話を会社の事務員の女の子とかに話したら多分、仕事で故意にミスされる。
今から20年くらい前に原崎裕三という方が「バカ売れの法則」という本を書いていて、何度も読み直したのだけれども、当時の俺は理解力が足りてなく、言っている事が分からなかったけれども、相手にとって自分の何に需要があるか。
そう言う視点でトークをしろと記載されており、何かのイベントで会った美人に自分の需要を作り出し、妻にしたような話が書かれていた。
でそうなると、自分と相手の関係性によって話すべき内容は変えなければならない。
余程の少数というか希少性がある範囲内、つまり自分に興味がある人との間なら自分の話をしてもいいかもしれない。
けれども、そうじゃない場合は自分の話なんかしちゃ駄目だ。
大体、他者が自分に興味があるという事はそうは多くない。
若い女性だったら男性がその女性に興味をもっている事が多いので、自分の話をしているだけでもいいかもしれないが、俺の年齢ぐらいの男性が自分のどうでもいい話をしたって相手にとって苦痛にしかならない。
苦痛にならないとしたらエピソードトークなどで相手の知的好奇心を刺激したり、へぇがある場合くらいだ。
何をして、こうなりましたという起承転結があり、相手に学びがあったりする場合。
もしくは笑い話になる話とかだ。
ただただ、自分の事実の話をしたって塩撒かれるだけだ。
歯科医師のところに行って、17時15分の電車で来ましたとかいうどうでもいい俺の事実の話なんかしたら成約率が30%くらい落ちると思うしな。
これも気づかなきゃならない誰も教えてくれない事なんだけれども、子供の頃は親や親せきや兄弟、先生なんかがどうしたなんて構ってくれて、自分に無関心な人の存在を知らないで済む。
だから勘違いを学習してしまう。
大学生の俺がそうだったように。
けれども年齢と共に、自分に無関心な人って大部分がそうなるのだ。
子供の頃からの刷り込みがそんなことを思わせないけれども、びっくりするほど、人は自分に興味がないものだ。
その意識がないと、人が自分に興味がある物と勘違いして、自分の話をしてしまう。
好意の対義語は嫌悪ではなく、無関心だというけれども、まさにその通りだ。
無関心な相手の全く興味がない情報の話をされたら、話されれば話されるほどザイオンス効果の逆でより無関心になるか憎悪の対象となる。
だから基本的に自分の話はしちゃいけない。
じゃあ、相手は何の話なら興味があるか
これは明確で相手は相手の話に興味がある。
自分の話をトークでするのはコミュニケーションとしては正しくないと思っているが、何故自分の話をするのか?
それは自分が自分に興味があるからだ。
これが反転して、では相手は何に興味があるか?
当然相手の事だ。
だから話すとしたら基本は相手の話をするのが望ましい。
相手が興味がありそうな話、共通の第三者、相手自身の話
主体は相手でなければならない。
それプラス、相手の話にしても事実だけでも駄目なんだよな。
相手の話を広げるというか、イメージや連想を膨らませるとか、投げた会話のボールが返ってこないと断絶してしまい、これもつまらなくなってしまう。
回答がイエスかノーかの質問なんかもそうだけれども。
そうなると、その場で観察等で気づかなければならなくなるんだよな。
身に着けている物、この場にいないところでの相手のイメージ、意図的な決めつけとか。
上手くやろうとするよりも過ちを正した方がコミュ障を脱却するのに早いと思うんだよな。
まあ、少なくとも自分に興味がない相手に自分のどうでもいい話をすることだけは避けた方がいい。
そんなことを思う。
それをするだけでも大分良くなると思うんだけれどもね。
こう記載していると自分も再度復習になるから悪くないかもなと思うけど。
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