こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
タイトルだけ見るとどれだけロボットのような合理主義者に思われるかもしれないが、本質的には事実だと思うんだよな。
例えばなんだけれども、無償の愛という言葉がある。
検索すると、「無償の愛」とは、「見返りを求めることなく相手を愛すること」です。と出てくる。
だけれども、見返りを求めていなくても、これを実行した人はなんらかの対価を必ず受け取っている。
そうじゃないとそもそも成立しないんだよな、人間関係は。
大人が赤ちゃんを可愛がるにしても、見返りは求めていないかもしれないが、結果的にはかわいいと思うポジティブな感情を本人は受け取っている。
メリットデメリット関係なしに、友人関係があるとして、ただ何も語らず、同じ時間を共有するだけという関係が続くだろうか?
少なくとも、会話して情報を受け取ったり、感情が動かされたりと何かしらの対価はそこに存在していると思うのだ。
ホストに通う女性でも、お金を使って楽しいとか感情の動き、つまりどんな形であれ感動を受け取っていると思うし、アイドルのおっかけも同様だ。
だから、厳密に言えば無償の人間関係は個人的に存在しないと思っている。
そして当然なんらかの対価は受け取っているにしろ、対価交換が続いていき、その対価の価値が釣り合わなくなってきて、ブレイクポイントを過ぎるとその人間関係は破綻すると思うのだよな。
当然、価値観や価値認識は人によって違う。
だから、人間関係において等価交換の対価が成立することは結構難しいと思うのだけれども、相手の価値認識において自分の差し出す対価は釣り合っているかどうか。
それは意識していないと結構簡単に人間関係は破綻すると思うのだ。
会社でもたまに私頑張っていますとか聞くことがある。
それを聞くたびに、俺はちょっとげんなりするんだけれども、頑張っているかどうかを決めるのはあなた本人じゃないよねと。
そんなこと言ったらどんなに怠けているやつだって頑張っていますと主張するに決まっているだろうと。
会社で俺怠けてますと公言するような挑戦状をたたきつける人はそうはいない。
それこそ飲食店で美味しくないラーメンですなんて看板は奇をてらった商法以外に見たことはない。
言ったもの勝ち、主張したもの勝ちが通じる場面もあるかもしれないが、基本はそうじゃない。
相手の価値認識の適正な対価と一致してこそ頑張っているか頑張っていないかが決まる。
先日記載した営業の仕事の話もトークの基本もそうだが、基本的に主体は相手だ。
頑張っているかどうかも自分ではなく相手が決める事。
それなのに、私頑張っていますという主張は細分化していくとどういう意味かと考えてしまうんだよな。
逆に言えば、普通に生きていて頑張っていない人なんているのかという疑問にもなるし、頑張るのは当たり前だよねとも思う。
にもかかわらず私は頑張っていると人に主張し伝えることはどういう意味か?
私は頑張っている→だから、もう少し報われるべきだ、認められるべきだ
こういった権利主張なんじゃないかと思うのだ。
そしてこれまた先日ネタにしたけれども、権利主張は欲を変形させたものであり、よこせ、よこせと他人の手を振り払い、自分の懐に奪う行為に見えてしまう。
ただ、それが頑張っていると言われている側と同じ認識なら、話は成立すると思う。
けれども結果的に頑張るの基準に、主張者と被主張者(言われる側)に大きな乖離があった場合、対価の等価交換が行われないため、人間関係破綻のブレイクポイントが近づくだけだと思うのだよな。
自分の存在している人間関係の中で、相手に差し出す対価は果たしてバランスを取れているだろうか?
そんな自問をして行動をしたほうが円滑にいくのではないかと俺は思っている。
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