ドラえもんの秘密道具に「タイムトンネル」という道具がある
使い方としては行きたい時代を指定してこのトンネルをくぐると、その時代に行くことができるというものだ。
普通にタイムマシンでいいじゃないと思う反面、秘密のポケットから出せるという利便性が違うのだろう。
タイムマシンは設置場所や線路というか通路のような物が必要な設定なのかもしれない。
本来のネタに行く前に、「ドラえもん」で思い出したのだが、最近好調なビジネスに「ど冷えもん」という冷凍食品の販売機がある。
確かに電気代が安くなるように工夫されている冷凍自動販売機は人件費もかからず、24時間自分の代わりに売ってくれ、無人餃子販売所と違って万引きもない。
賞味期限も長く、フードロスも少ないし、コロナ禍で急拡大したらしい。
有名店のブランドラーメンなども販売しているようで、物凄く成長しているビジネスだ。
こういう自分の代わりに何かをしてくれる系のビジネスは需給バランスがマッチするんだよな。
誰もがやりたがらない人が望んでいるサービスなんかもそうだけれども
でもそういうのも、売れたという結果論から理由付けは後からいくらでもできるけれども、まずはやってみないと分らないものなんだけれどもね。
相模原で有名なレトロ自販機の置いてある「中古タイヤ市場相模原店」なんかもレトロ自販機目当ての客が多数来店するようだし。
なんでも突き抜けると可能性が生まれて、中途半端だとその他と同じなんだよな。
だとしたら俺の飲食店も突き抜けて偏らせた方が良さそうなのだけれども、すぐには良い方向性の偏らせ方が思い浮かばない。
というより通常は恐れるよね、覚悟持たなきゃならないし。
まあ、店舗の営業時間をフル稼働に寄せていき、ガンガン広告打って認知度上げるというのが、正攻法の偶然狙いとしてはありだと思うのだけれども。
でも、本来なら自分でやっているブログやyoutubeとか、歯科医師に特化した集客という突き抜け方の方が本当は正しいのかもしれないんだけれどもね。
2005年頃の楽天ブログが全盛の頃で、俺がその目的を持って当時やっていたらできた可能性もあるが、今となってはそれも無理なので試行錯誤と「たまたま」に作用する行為の連続性しかないんだよな。
と大幅に寄り道
俺の記事を読むような人は「どうせみんな真っすぐ家に帰れないから丁度いいだろ?」とか酔っ払いながら書いていたので適当な発信
さて、大元に戻ると「タイムトンネル」の話だ。
現代においてもドラえもんに道具を出してもらわなかったとしても、「タイムトンネル」は存在する。
ただし、そのトンネルで行ける時代は昭和までだ。
何の話かと言えば、ランチだ。
「何言ってんだこいつ?」という幻聴が聞こえる
だが、よくよく考えて欲しい
バブルの前の古き良き時代から存在して、今も生き残っている飲食店の営業中にかかっている暖簾
これってさ、刹那の「タイムトンネル」の入り口と同じじゃないか?
一瞬だけ、高度経済成長期にタイムトラベルできる店もある。
それこそ、神保町にある純喫茶「さぼうる」もそうだけれども。
もはや古代遺跡と言ってもいいかもしれないが、現代風に改装するほど休めない、今でも存在する人気店の扉を開ければ、内装が一瞬で記憶に残る過去の時代へと我々を遡らさせる。
最近、特に思うのが立ち食いそばの店に「タイムトンネル」の扉が多いなと。
ちょっと前に記載したと思うが、飯田橋の案件を契約したのだが、その歯科医院の近くに立ち食いそばがある。
そこの「肉そば」がやたら美味いのだ。
京風とは対極を為すような、関東に見合った「麺つゆ」がシンプルで濃厚な「田舎蕎麦」
下手に気取った手の込んだ料理より、「思い出」補正によってシンプルな濃い味の蕎麦の方が美味く感じてしまう。
昔の駅構内にあった「立ち食いソバ」や、東京シティ競馬となる以前、改装前の大井競馬場の「ハムカツ」なんかが売られていたスタンドで、やっつけ仕事で作られた凸凹としたコンクリの床を思い出す。
そういった懐かしき店舗の入り口って「タイムトンネル」だなと思ったのだ。
ワームホール (wormhole) とも言い換えられるかもしれない。
ワームホール (wormhole) とは、宇宙において、時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道である。
分かりやすく言えばワープゾーンの入口だ。
「タイムトンネル」はドラえもんの道具で人工物かもしれないが、ワームホール (wormhole) は自然現象で、よくよく考えると宇宙だけではなく、現代の日本でも昭和にタイムトリップできるワームホールのような古き良き飲食店の入口は多数口を開けている。
この飯田橋の立ち食い蕎麦屋も「タイムトンネル」のひとつであり、ワームホールの1つだなと思うしな。
20年位前に俺が新卒の時に入社した会社の仕事で飯田橋に寄った時も、食べたなと今さながら思い出し、ひどく懐かしかった。
飯田橋に寄ったら、歩道橋のある交差点の先にある『豊しま』の「肉そば」は一度は食べた方がいいかもしれない。
リピートしたいと俺の記憶補正で何度でも思わされるのだ。
そして、同時にランチでタイムトンネル探しもいいかもなとか思い始めたのだ。
そんなわけで、白金高輪にふらっと入ったワームホールのような店舗も、何も考えずに入った割には安くて美味しく、昭和にワープできた。
この限定5食の「炙りトロとブリ丼」が1200円の割には美味しくて3回目のリピート
感動までは難しいが、白金高輪と言う場所に対してのリーズナブルさと、昭和へのタイムトラベル体験と、酢が強めの酢飯という好みの3条件が嚙み合うと、近くに行くとなんか寄ってしまうのだよな。
「3人寄れば文殊の知恵」ではないが、「3条件揃えばリピートの手招き」とでも言おうか。
さて、最近自宅に滞在する時間が短すぎるのか、澱のような疲労が溜まっている感じがしている。
面白おかしく生きている割には、ストレスなのか疲労なのか判別がつかない身体の叫びが聞こえるんだよな。
ただ、ストレスとは考えづらいので、蓄積疲労なんじゃないかと思っているのだけれども。
本当に疲労なのか、試しに1日くらい巣籠してみようかと思っているのだが、よくよく考えれば12時間以上自宅にいた日が一か月以上存在していない。
楽しんでいるはずなのに、倦怠感を感じて、若干酒に弱くなっているのも感じるというのは、本当に純粋に疲労しているからなんじゃないかと思えてきたのだ。
巣ごもりしてみて、疲労感の結果が変われば、年齢の割には行動量が枠をオーバーしているという事なので誇らしくもあるが、ちょっと「休む」ことにたいして意識しなければならないなと思わされたのだ。
まあ、疲労だったとしたら改めて「老い」って学ぶもんだよなとか思わされる
にしても、再度分かっていない事に対するヒントなのか「気づけよ」と言われているのかなと思わされたことがある。
もしかしたらそういう事なのかもしれないなと。
結果が伴わければなんの意味もないんだが、複数の友人に言われたことがあるのだよな。
俺からすれば、たとえ多数の人から言われたとしても、俺にとっては普通の事なので何の価値も感じないのだが、でも気づいて工夫しろということなのかなと思ったのだ。
それが、文章だ。
前々からだけれども、俺は表現を文章にした方が自分にとって有利に伝わるとは結果に何度も学ばされていた。
けれども、難聴のフリして、銀座の「筆談ホステス」みたいに筆談だけにするのも社会人としては違うしなと。
もう20年以上も毎日なんらかの文字を打っていればある程度誰でも文章を書くのは上手くなるものと思うんだが、友人の何人かに天才的と言われたんだよな。
でもさ、天才だったらそれで食えているよねと思っていたのだ。
俺の好き勝手で書いているので、自分で読み直してみて、まるで面白くないと思うような文章は避けているけれども、おそらく分野が限られていると思うのだ。
俺がこの人に敵わんなと思う日刊SPAでライターしているpatoさんが「おっさんのラブレターの代筆」を書けないのと同じだ。
ただ、逆に言えば、俺の記事を面白いと思う層が一定数いるならば、その分母を増やせば食えるかもしれないんだよな。
その分母を増やすためのアクションはやってこなかったけれども。
実際に、俺は文章を書くこと自体は嫌いじゃない。
それで、支持する層が一定数いるのであればその分母をどう増やすかだよな。
今更ながらだけれども、やってみてもいいかもな。
自分の記事の読者数を増やすための営業活動を
上手くすれば読者全員、俺に会いにくる店の客にできる可能性もあるしな。
マーケティングが得意な誰かと組むのが一番良いと思うが、「たまたま」に作用させるなら人との縁も含めて、読者の分母を増やす行為は一石六鳥くらいになるかもしれない。
よくよく考えれば、長い友人との縁も、インド旅行の無料招待も、社会的なステイタスの高い人との繋がりも、全部俺が書いた文章がきっかけをたらせたものだしな。
もっと多数の人に読ませることができればと思うと、逃げていたけれどもフェイスブックとかに全部集約させた方がいいのかもしれないよな。
でも、最近になって複数の友人に言われたって事は、そういうことだと思って行動した方がより前進できる可能性が生まれる。
まあ普段の俺を知っている友人だからそう思ったのか、そう思う人がたまたま自分の友人だったかが判別つかないけれども。
それなりに個別でお褒めいただけるってことは少なくとも標準は超えているという事だとは思うしな。
「猫に小判」と「豚に真珠」は実はいたるところにひっそりと存在しているものなのかもしれないよな。
物凄く傲慢に聞こえるかもしれないが、大学のサークルの同級生で、社会にもまれて即座にニートになり、そこから自称プロの作家になった文学部の奴がいるんだが、そいつが書いてネットの懸賞で佳作をもらったという「QUOカード500円」の文章よりも、どう読み直してみても俺が日々記載していたブログの文章の方が上手いなと15年くらい前に思ったものな。
今さらながら自分の持ち物を精査して、埃を拭い、「たまたま」が起きる可能性を増やす行動をした方がいいかもしれないよな
ちょっと意識して読者の分母を増やす媒体の精査と営業をしてみようかな。
分散させすぎなんだよな、俺は媒体を。
凡人にもかかわらず、個人情報の流出やネットでの炎上による袋叩きを恐れて、何も持たざる若造だった時にリスクを回避することが「賢明」だなんて利口ぶって勘違いしていたが、違うよな。
何もないってことは究極をいけば無敵の人になってしまうが、失う物は多少あっても掴めるだけの手の空き容量が大きければリスクを拾いに行った方がいい。
そうじゃなきゃ何も起きない。
ただでさえ何も起きないのに、起きたこともないリスクを恐れてどうするんだよな。
それこそ杞憂と同じで、明日天が落ちてきて地が崩落したらどうしようとその対策に毎日追われるのと変わらない。
起きた事象に対して自分を変化させていくしかないんだよな。
炎上したら炎上したで、一度は完全に炎上慣れしているんだから、言うほど恐れるべきではない。
アンチこそが本当のファンだと今更ながら、心の底から思えるようになったしな。
などと酒飲んでダラダラと書いていたが、また為すべき前進方法を見つけることができたかもしれない。
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