こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
今日の記事は完全な個人的な感覚なので共感される事は少ないとは思うが、俺自身はタイトルが事実だと思っている。
ちょっと前に、嫌われる勇気とかいう本とかもあった気がするが、そもそも日本って嫌われることを恐れすぎているよねと思うのだ。
嫌われるべき相手には堂々と嫌われるべきだというのが俺の思うところなんだけれども。
この記事にしようと思ったのもきっかけがある。
ちょっと前に記載した昔のテキストサイトの管理人でPATOさんという方の文章が俺は好きで、昨日ジンビームを片手に自宅警備中に過去の記事を検索してみていたりしたんだけれども、その中の記事でこんな記事があった。
居酒屋で飲んでいるときに隣のおっさん同士の会話を耳にして、職場で自分だけ栗拾いツアーに呼ばれず、後日栗拾いツアーの料金だけ徴収されたという逸話を持つPATOさんの記事で、これはなかなか面白いと思うのだ。
時間があれば是非、読んでみていただきたい。
で個人的に人に嫌われることを恐れすぎている人が多いなと思う中で、誰にも嫌われまいとすることは間違いだと俺は思っているんだよな。
何故なら、どんだけ気を遣おうが、どれだけ共感しようとしようが、相手の感性や気分や嫉妬などで嫌われるときは嫌われるし、すべての人間に好かれている存在などこの世に存在しないと思うのだ。
逆に、見たことがない。
つまり、ちょっと前に記載した雀聖と呼ばれた麻雀放浪記の作者「阿左田哲也」氏の言葉にもあるが、なにもかもうまくいくわけではないのでから何もかもうまくいかせようとすることは技術的には間違った考え方だという言葉を思い出す。
言い換えれば、誰にも彼にも好かれるわけではないのだから、誰にでも彼にでも好かれようとすることは生き方としては間違った考え方だと俺は解釈してしまう。
嫌われる覚悟は持って生きたほうがいいと俺は思うんだよな。
いつか訪れる死と同じで、嫌われることも避けられない。
その時が近づけば死も否が応でも覚悟せざるを得なくなる。
同様に嫌われることも避けられないんだから、その覚悟を持っていた方が行動が委縮しなくていい。
で、上記のPATOさんの記事にもあった下手な嫌われ方という部分に共感したのだよな。
上記に上手な嫌われ方の説明があった。
引用すると下記の通り
「上手に嫌われるってどうすればいいんだよ」
という問いにこの職場で嫌われているおじさんは即座に答えた。
「好かれようとしないこと。嫌われないようにしないこと」
太いおっさんいわく、最初は自分も「嫌われているかも」という気持ちがあったようだ。
つまり上手い嫌われ状態にあったそうだ。
ただ、そこでブルってしまい、なんとか嫌われまいと頑張った。
好かれようとした。
具体的には、尊敬できる人だと思わせようと仕事における過去の成功体験、つまり武勇伝をことあるごとに語った。
若手の私生活に介在し、打ち解けようとした。
相談に乗ってやったりもした。
気さくで愉快な人間だと思われたくて、テレビで流行っているお笑い芸人のネタを惜しみなく繰り出したりもした。
身なりにだって気をつけて雑誌を見たりもした。
でも、思えばそれらは全部が逆効果で積極的に嫌われる要因にしかならなかった。
この一文を読んだ時、そうか嫌われる覚悟がないから、嫌われることを恐れてより嫌われるかと思ったのだ。
守ろうとして失う、得ようとして失うと似ているなと感じる。
でもって、俺自身にも言えるけれども、俺は会社で嫌われることを恐れていない。
理由は簡単で嫌われることを恐れると面倒くさいからだ、余計に気も遣うし。
嫌われなかったとしても、嫌われなかった効果がその費やした労力に見合うとは思えないし。
逆に自分がこの相手には嫌われるべきだと決めた相手には堂々と嫌われてもかまわないし、嫌われるべきだとやっていると、意外に逆に嫌われないんだよな。
もちろん、すべての人に好かれようとしてうまくいっている人には敵わないかもしれないが、半分の人間に嫌われてもかまわないと思って好き勝手やっていても、意外に嫌われず、雰囲気的にも会社で俺の事嫌いな奴多めに見積もっても2割もいないんじゃないかな。
半分に嫌われていいと思って行動していてなので、かなり効率が良い結果なんじゃないかと思っている。
でここからが物議をかもしだすかもしれないと思うんだけれども、物凄く傲慢に聞こえると思うんだが・・・・
俺は記憶にある限り30代になってから自分が自分で恥ずかしいと思うような生き方はしていない。
武士は食わねど高楊枝じゃないが、格好はつけれていないかもしれないが、自分が見苦しいとか恥ずかしいと思うような行為をした記憶は一切ない。
ただ、これは主観の範囲で俺が気づかない客観から見れば、もしかしたら見苦しいことも恥ずかしいこともしているかもしれないけれど。
けれども、俺における事実は俺の主観が決めた事だ。
そう考えると、傲慢の極みみたいな話になるけれども、恥ずかしくない生き方している人間を嫌う人って、自分にとってかかわらないほうが良い負の存在じゃないか?って思うのだよな。
ここ連日記載しているが、正解の出し方は正解の正しいと思う事の道と、間違いの否定を続け残った消去法の道が同じだった時だと思うのだ。
これを翻って考えれば、負の存在に嫌われるって、不幸に嫌われるって事だと思う。
不幸に嫌われたら、不幸が自分を避け逃げていく。
最高じゃないかって思うんだよな。
そしてそもそも俺にはラッキーしか起きないんだから、ラッキーしか起きない人間を嫌う人間ってラッキーが嫌いな不幸な存在だよね。
だったら、むしろそんな存在には嫌われるべきじゃないかと思うのだ。
でこう考えるとだ、中学校の日本史で学んだと思うんだが吉田兼好の徒然草という随筆がある。
この徒然草の中に双六の名人に双六の秘訣を聞いたところ、下記の記載があった。
双六の上手という人に、そのやり方を質問しました所、「勝とうとして打ってはならない。負けまいとして打つべきだ。どの手を打てば早く負けるだろうと考えて、その手を使わずに、一目でも遅く負けるようなやり方をすべきだ。
これも負けの否定、負の否定だ。
そしてちょっと前に記載した裏プロ麻雀の桜井章一氏の言葉
勝負は強いから勝つのではない。99%の人は自滅することで相手を勝たせてしまう
てことは言い換えれば、相手を自滅させるようにすれば勝負事は勝てる。
そうすると、ラッキーしか起きない、且つ恥ずかしくない生き方をしている俺から見て、俺を嫌う人って負の存在だ。
負の存在が俺を嫌い、避けていく。
結果、仮に戦う相手となったら、負の存在って相手の自滅要因になるよねと。
相手を自滅させるためには負の存在を相手に送り込んだほうがいい。
勝手にいる負の存在がこちらの足を引っ張ろうとして失敗し、自爆し、何もしないでこちらが有利になる。
そう考えると万人に好かれるってことは負にも好かれるリスクがあるのだ。
幸福には好かれるべきだと思うが、不幸には嫌われるべきだ。
だからこそ、人も同じだと思うんだよな。
どうしてもいろんな人がいる以上、負の存在である人もいる。
負の存在には嫌われたほうがいい。
幸福を追い求めるより、不幸に嫌われたほうがよっぽど早く幸福になれる気がするのだ。
双六の名人の話と似ていないかと思うんだよな。
だから俺は八方美人にはなってはならないと思うのだ。
1方か2方からは嫌われたほうがいい。
おみくじで言えば、凶と大凶には好かれようとせず嫌われようとした方がいいんじゃないのと思うのだ。
人も一緒だよね、万人が有能で優秀で善良な人ではない。
中にはその真逆の人もいるわけで、そういった人からまで好かれる努力をすることは言い方は悪いけれども努力して災害を呼び寄せるような物。
だから、俺は嫌われるべき相手には嫌われるべきだと思うんだけれども、偏ったようにも聞こえるかもしれず、万人に共感は得られないだろうなと分かってはいる。
なんとなくリンクを張った栗拾いツアーの話を見て思った記事だ。
コメント