こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の中島です。
有名な長寿番組で火曜日のPM9時にテレビ東京でやっている「開運!なんでも鑑定団」という番組がある。
俺が中学生時代からやっているので、もう30年近くやっているんじゃないかと思うのだが、調べてみたら1994年から放送開始されており、28年間放映されている。
この番組見て骨董品にハマったりする人もいるのだろうが、自信満々に出したお宝が目も当てられない惨劇の偽物だったり、悲喜こもごもといってもおかしくはないことがよく起きる。
インターネットで格安で買った物が、もの凄く高額のお宝だったり、逆にちゃんとしたところで購入した高価格だったものが偽物で二束三文だったりと。
これってなぜ起きるかと言えば、骨董品の目利きの絶対数が少ないからなんだよな。
普通に生活をしていて現代人が骨董品に触れる機会というのは少ないと思うのだ。
だからこそ、人によっては高価な物がガラクタに見えたり、ガラクタが高価に見えたりする。
言い換えれば、正しく価値認識が行われないのだ。
分からないというか。
こう思ったとき、あれ待てよと思ったのだ。
これって骨董品に限らず人も同じじゃないかと。
見え方も色々あると思うんだが、俺の価値観からみると、この世の中って人の価値が正しく認識されてていないなとよく思うのだ。
まさに骨董品と同じで、お宝のような人なのに粗末に扱われたり、災害のような人なのに守られたりするのを見ていると骨董品に限らず、人の目利きもほとんど存在していないんじゃないかと思ったのだ。
もちろん、こういう俺の視点が正しいとは限らないんだけれども、俺は人に騙された記憶も人を騙した記憶もないので、比較的フラットな視点を持っていると思うんだが、この人価値あるのになと思う人が粗末な扱いである状態を受け入れていたり、この人災害だなと思う人が何かを要求してきたりするのを見ると何故こんなズレが起きるんだろうと思わされるのだ。
結果的には骨董品と同じで、見る側がその価値に気づかないからなのではないかと思うのだけれども。
つまり目利きがいない。
災害のような人はハリケーンカトリーナであることを自分で認識できていない。
実際にハリケーンカトリーナも人格があるわけではなく、無自覚に災害を起こしているけれども、それを悪だとか悪いとかの意識はない。
クールに己のなすべきことを淡々とやった結果、災害になっているわけだ。
そして災害のような人もやっていることは結果的には災害なんだけれども、自分が災害を起こしていると認識しておらず悪意がない。
悪意がないのが一番悪いという言葉を聞くが、本当だなと思うものな。
悪意があれば、分かっててやっている以上、まだ改善の余地があるかもしれないが、悪意がないと善意で災害を起こしているので、そもそもそれがいけない事だという認識がないから改善のしようがない。
紛争地帯の少年兵がもっと幼いころから敵兵を倒すこと、つまり人を殺すことを称賛されたら、それが悪いことと生涯認識できないのと一緒だ。
でもって俺が思うに、お宝の鑑定ポイントと同じで人の目利きのポイントってあると思うのだよな。
何度も記載しているけれども、それは言葉じゃなくて、行動と結果
この軸で見ていると個人的にはポイントを外さないと思うのだ。
人間、言葉には嘘があるが行動には嘘がない。
そして結果は正直すぎるほど正直だ。
お店で自分がいるときにノーゲストであったり、売り上げが低ければ結果的にお客さんに否定されている。
だからそうなったら、結果に否定されている以上、何かを変えなきゃいけない。
けれども、災害のような人は結果に否定されてもそれが悪いとすら認識できないから、被災する側が災害のような人を温和な天気に変えようとしたって無駄なことで、逃げたり避難するのが一番正しい。
ただ、俺が正しいとは限らないんだけれども、こういった結果と行動という視点で人を見ている人って少ない気がするんだよな。
だから、人の見た目や使う言葉や身に着けている物や装飾に誤認させられる気がするのだ。
確かに、五感に訴えるのものが一番わかりやすい。
見た目、声、香り、このあたりでその人をどういう人かと決めてしまいがちなんじゃないかと思うのだ。
でも行動と結果による判断は五感に頼っていない。
逆に言えば、がちがちに装飾して武装した人は、人が分かりやすいもので判断するということを理解しており、見た目やブランドなどの装飾された情報発信によって誤認させようとしているのかもしれないな。
本当の金持ちがブランド品などを身に着けないとよく言われるが、彼らはもう人に誤認してもらう必要がないからで、逆に言えば見た目の部分やブランドといったもので武装することはそもそも自分の価値を高く見せようと誤認させようとする行動なんじゃないかとか思えたのだ。
でもそれってさ、範囲が難しいけれども心の奥底に相手を誤解させようって発想があるんじゃないかとも思えてしまう。
そう考えると、あまりに作り上げられた分かりやすい情報発信をしている人って危ないなと思うものな。
翻って考えると、誤解で成り立っているからこそ、本質的な価値が分かりづらく、勿体ないことが往々に起きたりする。
いくら本質的な価値があったって、その価値があるという情報を発信しないと人に気づかれない。
けれども中身がスポンジボブだろうが、人に価値があるように思わせる情報発信をすればそのように扱われる可能性も高い。
見た目、使う言葉、雰囲気、身に着ける物、少輔する高級車は確かに自分がどういう人間かと周りに発信していることになる。
その分かりやすさは重要かもしれない。
だからある程度の清潔感とかは確かに必要だとは俺も思う。
けれども、そこだけに頼ると贋作をつかまされるよなと思うのだ。
だからアウトプットって必要だと思うのだ。
情報発信をする必要があると。
普通に生きていると普通以外の情報発信は行われないから、分からないんだよな。
俺はパフォーマーが嫌いなんだけれども、よく会社の役職者なんかが、意味わからないことでブチ切れて、怒声を張り上げ、俺を怒らせると大変なことになるから分かっているよなと無駄に人を不快にさせるパフォーマンスを行い、自分は恐れるべき人間だから敬えと言う情報発信をしてくることがあるんだけれども、あれも情報発信なのだ。
そして人は分かりやすいものを信じるということを理解しているってことだと思うのだよな。
俺の感性ではそういうパフォーマンスは恥ずかしい事なのでやらないし、やりたくもないけれども。
けれども、贋作をつかませようと思っているならすべきことなんだろうね。
だから言葉の棚上げも情報発信だなと。
世の中、自分の事を棚に上げて人を批判したり、文句言ったりする人がいるが、棚上げは自分を安全地帯においやってからの自分以外の否定という分かりやすい情報発信なんだよな。
だから分かりやすいものを信じやすい人の性質を上手く利用している気がするんだが、俺は人の棚上げを見るたびに「お前の出している結果はどうなんだ?」と思ってしまう。
何をしてどんな結果を出して、どの立ち位置でそれを言っているのか?
棚上げする人はこう問われると大体何も答えられない。
自分のやっていることを分かっていてやっているからなんだろうけれども。
逆に、結構俺の視点で価値が高い人って情報発信をしない気がするのだ。
だからその価値に気づかれない。
そう考えると、インスタでもツイッターでもなんらかの情報発信って意図がなくてもしたほうがいいんじゃないかと思うのだ。
俺も学生時代に狂人だと思われていた節があったがホームページやブログで発信を行うようになってから誤解が解かれた感じがしたしな、いや未だに狂人かもしれないが、文章によるアウトプットで狂人からユニークな人というカテゴライズにある程度誤解させることができているのかもしれない。
まあ、こちらのお店のブログ更新も意味があって、長くやっていた他のブログで情報発信することで多くの人の縁を得て、望む結果に対して間違っていなかったと経験があるので、新規顧客の集客をするのに、何かの検索で引っかかって、少しでも目を止めてくれた人が面白いと思ってくれれば近所だったら一度くらい俺がハシビロコウを見に行ったように俺を見に来る人がいるかもしれないというのがある。
そんなわけで、情報発信、つまりアウトプットはしたほうがいいよというネタと、人のアウトプットの受け止め方は五感に頼らない方がいいんじゃないかという内容の記事をふと書こうと思ったんだよな。
さてGWが始まるので店の集客がどうなるか。
こちらのブログも5月からタウンページのリンクが張られるので、衆目を集められれば集客につながるかなと思っている。
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