横浜市立日枝小学校卒業生の追憶

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さて、戦略的に地元に特化した記事を書こうと思い、まずは俺が卒業した小学校である横浜市立日枝小学校に思いを馳せたい。

元々俺は1989年に父がキャビーヌをオープンさせたことにより引っ越しを余儀なくされた。

小学生5年の秋だったと思う。

あと1年と少々で南太田小学校を卒業だったため、引っ越したことを黙っていたのだが、ある日それが発覚してしまった。

引っ越し先からそれほど距離があったわけでもなかったので、卒業までの残留を求めたのだけれども、当時のお役所というか学校は強かった。

その日、ある日突然の俺の転校が決まってしまった。

急な転校ってよくよく考えるとちょっとしたことで起こり得るのね。

そして、俺は日枝小学校に入学した。

鎌倉街道に面した日枝小学校の前には登校用の歩道橋がかけられており、30年以上前からあるそれは老朽化で崩れたりするんじゃないかと思う事はあるけれども、東日本大震災も生き残っている事を考えると意外に頑強な造りになっているようだ。

歴史を見てみると、日枝小学校が誕生したのが明治44年の4月だそうだ。

明治44年というと西暦で表せば1911年

東郷平八郎が日露戦争でバルチック艦隊を撃破してから6年後の事だ。

創立が今から112年前

卒業生は誰も生きてはいないだろう。

想像以上に歴史があるが、今の建物になってから何年経過しているのだろうか。

うちの店、キャビーヌも日枝小学校の前の歩道橋を渡り、牛丼の「すき家」の道を真っすぐ歩いて川を渡るとある。

30年前は毎日その道を逆に歩いて日枝小学校に通っていたわけだ。

登校口の下駄箱に靴を入れて上履きを出すと、目の前に巨大な水槽があった記憶がある。

用務員の壮年の男性が管理をしていて、ある時水槽を清掃するのに、ホースを入れて逆から口で吸い込むと水が無くなるまで自動に水を排出しつづける技術を教えてもらった記憶がある。

思いっきりやりすぎて、汚れた水槽の水を口に含んでしまい、やたら生臭かった記憶も蘇ってきたけれども。

その水槽の裏には当時、育ちの森と呼ばれていたウサギ小屋や金魚や鯉が泳いでいる池のようなものがあった。

図書室とも隣接していた記憶があり、当時の悪童が角に置かれた清掃用具の中の箒の柄を鋸でカットして刀にして遊んでいた。

暴れん坊将軍が毎週土曜日にテレビで現役でやっていた時で、マツケンサバも存在しない時代だ。

その悪童は吉宗ごっことか称して、M君というちょっと弱弱しい子をいまでは大問題になりそうないじめ方していたな。

M君は何も悪いことしていないのに大体、成敗されていた。

本来は成敗されるべきなのはその悪童側なのだけれども。

今考えると、当時は現在と違い緩かったというか許される社会だった。

許される社会が未成熟な社会とも言い換えられるのかもしれないが、完璧を演じさせられ続ける現代は許さない社会過ぎて息苦しい。

江戸時代の政治で言えば松平定信の政治と同じで「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」と詠われてしまってもおかしくはない。

炎上とか見ていると、本当に許されないから許さないとストレスを発散しているように見えてしまうんだよな。

とすぐに寄り道したがるのは俺の悪い癖だ。

そう、日枝小学校の追憶だった。

当時の俺の担任は50歳くらいのS先生というこれまた有名な女性教諭だった。

今思えば、更年期を隠しもしなかったような教諭で、現代であれば許されない数々の暴挙をしていたなと思うのだ。

まずは「猫掴み」という生徒の首の後ろをつねり上げるのは完全に体罰に当たるだろうし、教育方針は生徒を自分の未来のために利用していたなと。

社会人となり、人の言動の意図を考えるようになった今だから諸々理解できることがあるが、当時は一体この先生は何を教えているのだろうと疑問に思ったものだ。

この教諭が凄かったのが、授業をしないという1点に尽きる。

義務教育で、おそらく文部省から不可能ノルマのような授業の進捗目標等はあったと思うのだが、ある意味この女性教諭は覚悟を持っていて、腹を括って授業を放棄していた。

そして自らの都合による活動を全面に押し出していた。

今だったらモンスターペアレンツが学校に大クレームを入れて即刻懲戒になってもおかしくはないのではないかと思うが、当時の公務員は強かった。

いつから公的力と民間の力差が逆転したのかは不明なのだけれども。

「地球を救う作戦」という環境保全活動に力を入れている情報発信をしており、廃油石鹸作りや空き缶つぶしを大分やっていた。

本来、国語や算数や社会を教える時間はほぼすべてが「地球を救う作戦」に割り当てられており、おかげで小学校卒業時には我がクラスは個別で塾に通っていないと小学校5年生で習う事と6年生で習う事を知らない状態で中学校に進学することになったのだ。

まさにちょっと前の政策の自助努力というやつだ。

自ら努力しない者には救いはないというある意味最先端の教育だったのかもしれない。

おかげで、塾に通っていなかった俺も含め、学校の授業だけだった生徒たちは軒並み成績が悪く、中学校1年生の時点で結構致命的な状態だった。

俺はそこから萌希塾に通うようになってなんとか持ち直しはしたのだけれども。

ただ、自己都合をそこまで徹底し、目立つ実績を作って教員としての上を目指すというあの野望は敬意を払うに値するなと。

生徒たちの学力は自助努力で努力しない者は脱落するという資本主義の典型のような話で、子供には分からないが、大人になったら意図を考えもう少し生徒として俺も上手くやれたかもしれない。

あれから30年経過するのでS先生ももう鬼籍にその名前を連ねているか、80歳を超えているだろう。

話題作りのためにS先生はネパールで養子をもらっており、確かサンタラル君という名前だったと思う。

彼も今の俺と同じくらいの年齢だろう。

思い出したのが、サンタラル君が小学校を留年したとか学級新聞に書かされたな。

ネパールでは小学生でも留年があるんだと思わされたけれども。

そして小学校5年生と6年生は赤城林間学校にはまだ行っているんだろうか。

当時は赤城山に糸井重里がテレビでやっていたの徳川埋蔵金伝説の話があり、何かの拍子に見つけられるんじゃないかと勝手にわくわくしていたけれども。

今は分からないが、かつての小学生にとってはトイレで小の方をではなく大の方をするのは恥辱的なことだったが、悪童が大をする生徒を見つけて遊ぶために赤城林間学校のトイレでずっと見張っていたりした。

おかげで俺は三日間くらい我慢することになり、帰りのバスでよく漏らさなかったなと我ながら感心する記憶を思い出した。

その瞬間を目撃されまいとするあの変なプライドはなんだったんだろうか。

そして、限界を超えているというのに長距離バスに揺られて、学校に到着すると家につくまでが遠足です的な余計な長いスピーチに、殺意に近い物を感じながらも走って家に帰った記憶はよく残っている。

こちとらとっくに限界は超えているんだよとその長いスピーチが無事に帰宅できるかそうじゃないかの生死の境を分けていることに何故気づかないと勝手な自分の都合で憤っていた。

現場を目撃されるよりも、帰宅時に漏らす方がよほどリスクなんだけれども、すべてを隠蔽し、なかったことにするための我慢は多分今までで一番だったのではないかとすら思える。

元々両親にコミュニケーション障害の英才教育を受けていた俺は小学生の時に良い記憶がなく、自分が悪いんだが、何が悪いのか分からない状態だった。

普通というか、環境は恐ろしい。

間違っている事を普通とか当たり前だと教えられてしまうと過ちに気づけない。

中学校、高校と進学して成長しても会話の仕方とかコツなんか誰も教えてくれない。

そもそも間違っている会話をする人に育てられたら、より影響されていくだけ。

会話の主体が自分主体の人はそもそもそれがどれほど人に苦痛を与える事かわからないのだ。

会話のコツは主体を相手にすること。

そういう教育を受けているかどうか、影響をうけているかどうかで人生の選択肢は大きく変わるのだけれども。

とまあ、店の戦略的に地元の人に認知度を上げてもらえるかもしれないプロバビリティの連続性のために地元の記事を書いているが、むりやり記載すると我ながらあまり面白みを感じない。

時折、思い出して追記、推敲するようにしていきたいが、小学生の記憶って30年前以上の話だしな。

そりゃいいネタもなかなか思い出せないよね。

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