世界に一つだけの花の歌詞を思い出した
No1にならなくてもいい
本質的な話かもしれないと思ったのだ。
というのも先日の事
横浜でNO1と聞いた寿司屋に行ってきた
寿司屋の名前は鶴屋町にある「万代」
カウンター席を予約したかったのだけれども、3週間前から予約しても駄目で個室に行ってきた。
コースもどうせ行くならと一番良いコースでいったところ、二人で61,000円
丁度入店する前に営業時間前だったにもかかわらず、海外のVIPが着物姿の女性と出てきた。
カラフルなスーツの黒人男性と映画ロッキーに出てきそうな大型な白人男性
VIPの接待に使われる店なんだなと妙に納得
寿司もサンマの寿司とツブ貝の寿司が食べたことのないような味わいで「流石」の一言だった。
サーモンも色が違うし、鉄火巻の酢飯も赤酢がしみ込んでいるのかシャリの色が違う
ギンダラの西京焼きも脂の乗り方も含め、食べたことがないほど甘くて美味しい。
かといって甘すぎず漬け方が絶妙なのか味噌が凄いのか。
刺身もまさか電車移動中に読んでいるコミックシーモアの「江戸前の旬」にでてきた美味そうだなと思った天上ブリがでてきた。
天上ブリとは日本の最北端で獲れるブリのことで、日本列島の天辺で獲れるため天上ブリと言う。
寒ブリシーズンの先駆的な存在で、一般的な寒ブリほど強い脂がないが、溶けるような柔らかさがある。
実際に美味い。
そして、最初に出てきたバフンウニの出汁付けみたいのも堪らない。
凄いなと言う感想でしかなかった。
だがしかし、同時にオリンピックだなと思ったのだ。
この寿司屋は金メダルを目指しているだなと。
一般的に結果金メダルと結果銀メダルでは雲泥の差だと言われている。
でも、よくよく考えれば銀メダルという事は世界第2位なんだよな。
勝敗の決する部分はほんの僅かな差なのにも関わらず、その後の結果に絶大な差が生まれてしまう。
それこそ、インドで京大生に助けられた時、学力で言えば偏差値60と65の差よりも、70と71に差の方が絶望的に大きいと感じたのと同じだ。
僅かな差に絶大な差がある。
そこの価値を見出せるかどうかだなと。
食事も一緒で「美味しい」は当たり前だとしても、最上級レベルになると、この味は、今までで一番美味いと思っていたところより1.01倍美味しいなと思ったとして、その1.01倍の体験に対価をいつものところの2倍とか支払う事になってしまうのだ。
そのわずかな差に価値を求め、価格を出せるかどうかだなと。
良い店に行って分かったのは俺は食で金メダリストの体験を目指していないという事。
一度は体験したいと思ってやってはみるが、結果的にはいつものこの価格でこれだけ美味しいと思う店でいいんだという事を学んだ。
寿司屋で言えば伊勢佐木町の「つかさ鮨」で十分なのだ。
あのクオリティなのに二人で行ってどんだけ食べて飲んでも3万円いかない。
それで満足できるだけ十分に美味しい
銀メダリストや銅メダリストでもなく日本代表くらいでもきっと俺は満足ができる。
こういう学びがあるうえでも、いい店も一度は行っておくべきだなと思うのだけれども。
そしてそんないい店に行った数日後のこと
俺は中央林間に仕事で来ていた。
何を食べようかなと思っていると、北海道ラーメン「すみれ」の暖簾分けの店で「ラーメン郷」というお店が圧倒的評判で近くにあることが分かった。
滅多に来る場所ではないしと俺は評判だった「塩ラーメン」と「味噌ラーメン」のダブル注文と言う暴挙に出た。
価格よりも、機会を得るためにもう一度ここに来る時間を節約する方を優先した。
俺の個人的経験則だけれども、人間の差は「時間の価値認識」で決まる事が多いように見える
その人自身の時間の価値の認識が高ければ高いほど、結果的に称賛される結果になっている人が多いと思うのだ。
逆に言えば「暇つぶし」という言葉を使う人で凄いと思う人を見たことはない。
丁度最近、何度か記載している日ノ出町に2023年10月10日にオープンした「THE味噌」という北海道味噌ラーメンの店の「北海道味噌」、「小田原味噌」、「信州味噌」をコンプリートし、何度行っても美味いと結論付けたばかりで、それだけ評判の良い「すみれ」系の味噌ラーメンももしかしたら今食べたら物凄く美味しいかもしれない。
そう思い、塩だけにとどまらず味噌ラーメンも注文したのだが、確かにどちらも美味しいは美味しかった。
けれども、2回目はいいかなと言う感想だった。
濃い味好きとはいえ、濃厚すぎるのと後味が変わらない単調さに年齢的な物もあるのか、美味しくて食べるのではなく、残さないために食べるみたいな感覚に陥ってしまっていた。
まあ、味噌ラーメンが塩ラーメンの後だからと言うのもあるかもしれないが。
そう思ったときに、過去の思考が再度首をもたげる。
会社員もそうだし、一般的な成功者もそうだし、一流と呼ばれるアーティスト達やお笑い芸人達もそうだと思うんだけれども、有名になる事や成功する事は決して実力ではないなと思ったのだ。
誤解と思い込みが支配するこの世の中においては、「実力がある=成功する」という概念がはびこっているが、そう我々が思っているだけにすぎず、結果はきっとそうじゃない。
どちらかと言えば見せ方や演出、プロモーションの方が重要なのだ。
歯に衣着せぬ言い方をしてしまえば、本質的な能力や価値よりも、誤解させる技術、思い込ませるスキル、演出
こちらの方が世間においては価値があり、本質という物には価値は見いだされない。
というより本質的な価値は一般的にはその価値に気づかれない。
磨く前のダイヤが石炭に見えるのと同じかもしれない。
ブランドによる価値があるという演出が、本質的な味よりも「美味い」と思わなければいけないと人々の思考を作り上げ、浸透させる。
裸の王様は決して童話ではなく、今でも息づいている話で、裸の王様の服を讃えている自分に気づかないだけだ。
これを美味いと思わない奴は「味音痴」だという強迫的観念が、馬鹿には見えないと言われている服を着ている裸の王様の服を美しいと称賛する
自分で考えているようで、そもそも誰かが作り上げた概念や演出に思考を操られており、そう考えさせられている事に気づかない。
そう考えると、繰り返しになるが思考の起点って大事だよなと思うのだ。
結果を起点に考えれば、何故そのような結果になったかを自分で考える。
これは操られていない思考だが、結果を求めて結果に向かっていく思考では様々な他者の思惑や言動や演出に思考を曲げられる可能性がある。
そう考えると翻って、どれだけ演出をするか、自分の都合の良い誤解を表現し続けられるか。
社会においてはこれが価値のある行為なのかもしれない。
かつての俺はパフォーマーが大嫌いで、本質ばかりを探していたけれども、今考えてみれば彼らは、彼らの都合のためには正しかったのかもしれないと思うのだ。
世界は本質なんか求めちゃいない。
本当だと思い込める幻想を求めているのだ。
そんなことを有名ラーメン店で思わされた。
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