こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の中島です。
さて、これも以前記載したかもしれないが、最近やはり今の自分から見える世界はマトリョーシカの中なのかもしれないと思わされる。
マトリョーシカと言えばロシアの代表的な工芸品の人形で、大きなマトリョーシカ人形の中に、小さなマトリョーシカ人形が入っていて、その小さなマトリョーシカ人形の中にはもっと小さなマトリョーシカ人形が入っているという木彫りのあれだ。
普段の日常を繰り返していると、この最小のマトリョーシカ人形の中にいるのと一緒で、その狭い空間を当たり前と思っていて、もう一つ上のマトリョーシカから見える世界とは見え方も範囲も違うのに、そのもう一つ上のマトリョーシカの存在自体にも気付けない。
よく言う俯瞰して見るという言葉の、俯瞰の高度が違うというか。
公園の標高1mの砂山から俯瞰するのと、100mの山の頂上から見える景色は違って当たり前というか。
でも、当たり前の変わらぬ日常が続いていると、自分が今最小のマトリョーシカの中にいるとそもそも認識できないため、というよりそれ以外の世界がリアリティをもって存在していると思えないため、自分以外の誰かにとって都合の良い刷り込まれてきた思考や行動を取りがちだよな。
何の話かと言えばなんだが、まあ自分事なんだけれども、現代も江戸時代の士農工商の身分制度と同じだなと思ったのだ。
俺自身、親に良い大学を出て良い会社に入るという昭和の高度経済成長期というごく短時間にだけ通じた必勝法を刷り込まれてきて、刷り込まれてきたが故になんの疑問も抱かず、会社員をやってしまって早20年。
今良い会社ではなくて、昔は良かったんだけどねという会社にしか入ったことがないという失態を犯してはいるけれども。
江戸時代の水飲み百姓が、百姓の子は百姓になるのが一番だと刷り込まれていたのとまったく変わらない、最小のマトリョーシカの中に居続けてしまったのだと気づいて勝手に愕然としてしまったのだ。
というのも、今から2年前の丁度コロナが始まった2020年の4月、父から引き継いでからうちの飲食店をやっていたスタッフがある日突然辞めると言われ、俺は選択を迫られていた。
その飲食店を自分で続行するのか、それとも撤退するのか。
常識的に考えれば1億%撤退すべき状況だった。
友人全員にも反対されたし、勝算0だったし、コロナで営業しても客来なかったろうし、俺自身も客など持っていなかったし、そもそも俺はプロの酔っ払いであって、プロの接客業ではないし、建物も内装も老朽化でボロボロで営業するにも恥ずかしい状況だった。
けれども、3つ続行する意味があるなと思った。
1つが辞めたスタッフだが、おそらくだが客を持っている自負があるため、自分が辞めれば、客も持っていない経験もない俺が撤退するだろうと計算したと思うのだ。
そうすればその後に居ぬきで自分が入り、父の流れからくるうちの存在をすっ飛ばして、店舗を合法的に乗っ取れると考えていたのではないかなと。
そんな小賢しい計算を分かっていて踊らされるのも癪だったというのもあるが、そのスタッフが高齢であり、多分仕事をしなくなるとすぐに駄目になるだろうなという感じていたので、オールウィン以外はオールローズであるべきだという俺の信条のようなもので、矜持を見せてやろうと思ったのが一点
もう一点は純粋に親父が30年守った店であり、もう思い出されることもそうはないだろう、親父がこの世に確かに存在した証を俺が可能な限りは残したいと思ったのがひとつ。
最後の1点は、飲食店の経営という経験が初期費用ほぼ0でできるという点だった。
普通の人が飲食店経営をしようと思ったら、居ぬきで買ったとしても最低でも数百万はかかる。
これは初期費用で月々の固定費は別だ。
ランニングコストを考えても200万円くらいは初期費用とは別に1年間でかかるだろう。
そして大体が致命傷を負って撤退する。
けれども、自分の意志一つで初期費用0で飲食店経営が経験できるのだ。
大学とかで言えば特待生で授業料免除で授業を受けられるようなもの。
こんな貴重な経験をほぼ原価0で得られるのにやらない理由はないなと思ったのが最大の理由だった。
そうしたら、持続化給付金で100万円を無条件で国から支給されたので、もともとの自己資金と合わせて2年は存続できそうだなという状況になった。
さらには国が飲食店向けにコロナ対策で手厚い補助をしているので、結果的には目を瞑って振ったバットがたまたま球にあたり、クリーンヒットを打ったような形になった。
これだけでも流石俺、ラッキーしか起きないと思っていたが、それ以上にラッキーだったのは自分が入っているマトリョーシカの中のサイズが分かってしまったのだ。
店の経営をすることで、個人事業主とか法人がどれだけ国から優遇され、有利な土俵で戦っているかが分かったというか。
もちろん、雇用を生み出し黒字の経営で回すことはかなり難しいのだけれども、会社員は年貢が重すぎる割には特典が極めて少ない。
けれども、世の中には助成金や補助金ビジネスといった公共で条件さえ満たせば、一撃で会社員の年収くらい手に入るような特典が解放されていたり、会社員には与えられない事業復活給付金とかがあったり、それを取得させそれに見合った物を売る仕事とか原価が低く抑えられているのに、1件で会社員の月収を軽く超えるビジネスが解放されていたりするんだよな。
今度、失業保険料が上がるように、国は確実に取れる会社員から年貢を重くして、集めた金を特定の個人事業主や法人にばら撒いていたりするわけだ。
どう考えても、会社員という農民は年貢が高くて割に合わないし、その割には終身雇用が約束されているわけでもなくリスクがあり、平均年収を超える年収があっても、定年まで勤め上げて手に入る年金は生活保護者に毛が生えたレベルしかもらえないシュミレーション
さらに言えば、そもそも国が年金破綻するから自分で投資して自己責任で生き残ってねと401Kだの積み立てNISAなどを推奨している。
そういうのしないと生きてけないけどそれは自己責任だからね的な。
となると、やはり会社員という生き方は江戸時代の農民の生き方だなと改めて思わされたのだ。
そして、それが最小のマトリョーシカの中で、狭い範囲の中の当たり前というか。
農民は生かさず、殺さずとは徳川家康の言葉だが、自分が生かされもせず、殺されずもというのはやはり割に合っている気がしない。
そもそも過去に読んだ本に、何故人を雇用するのかという問いに、自分がやったら割に合わないから人を雇用して割に合わないことをさせているという記載があったなと再度思い出させられた。
個人事業主等の特典を受けたことで、自分で仕事をするというマトリョーシカのサイズアップをすべきだなと最近は強く思うのだ。
そんなわけで、自分の仕事をしにこれから打ち合わせへ。
目を瞑って振ったバットも振りまくれば飲食店の個人事業主みたいに芯を食って当たるかもしれない。
自分の打席には三振がないのだから、1万回でも素振り感覚でバットを振ってやりたい。
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