全部上手くいかせようとすることはテクニックとしては間違っている。

思う事
ご挨拶

こんにちわ、地下鉄吉野町駅最寄りのカラオケBARキャビーヌの中島です。

 

著書

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こんにちわ。

地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。

さて、営業の人間としてはやはり仕事上、売り上げを回収できるかどうかというのがかなり重要になるので、俺自身も結構警戒心は強い。

それなりに売れている営業であれば、大体皆警戒心は強いとは思うんだけれども、だから、すぐにどういう人かというのを行動で見る癖があるんだよな。

毎回記載しているが、言葉には嘘があるけれども、行動と結果には嘘がない。

なので相手がどんな良いことを言おうとも、矛盾が分かっていても基本的に余計はことは言わずに、黙って行動を見ていると、これで大丈夫なんだと慢心するというか、エスカレートするというか、より言葉と行動に乖離が広がりやすいので大体見間違えない。

だから、相手が自分を人間として見ているのか、利用するためだけのツールとして見ているのか、行動を見て、後者だなと見えるとなめられたもんだなと結構不快になる。

まあ、多少なら暗黙の了解的なことがあるけれども、それが当たり前ではないし、気づいてないとでも思ってんのかなと思うと、やはりいい気はしない。

そんな中、立て続けに学生の期末テストのようなことが最近あったんだが・・・・

なんだろうね、俺がこなせるのは分かっていることを何かが試してくるんだよな。

俺の持続力とか忍耐力でも試しているのかと思うんだけれども、何度結果でこなして証明して見せてもこれでもかと細かい問題の束が俺を休ませるなと言わんばかりに押し寄せてくる。

それこそラクダの背骨をへし折る最後の藁の一束、「ラストストロー」じゃないが、もう限界だろみたいな、これが俺を押しつぶす最後のピースと言わんばかりに、ジェンガの様に些末な問題が連続で積みあがるんだよな、ここんとこ。

まあ、全部大した話じゃないんだが、チリ積最強だろみたいな感じで、俺のメンタルを試してんのかなと思うんだが、もう十分証明したんだからそろそろテストは卒業でいいだろとか思わされる。

ただ、やはり立て続けに問題が起きると一瞬でも「つまらんな」とか思ってしまうことのメンタルの弱さを咎められているのかもなと。

そう、その一瞬でも「つまらんな」と思ったときにちょっとこのワードに引っかかり、色々脳内で展開していった。

麻雀放浪記の著者で雀聖と呼ばれた阿佐田哲也氏がいる。

30年くらい前に少年マガジンでやっていた麻雀漫画「哲也」の原作で、このペンネームの由来は「朝だ、徹夜だ」からきている。

この方の名言はギャンブル格言が多いのだが、これは博打に限らず普遍的だと思った格言がある

それが

何もかも上手くいくわけじゃないのだから、何もかも上手くいかせようとすることは技術的には間違った考え方だ

というもの。

そう、何もかもを上手くいかせようとすることは考え方としては間違っているんだが、メンタルが弱いとそれを受け入れられない。

そしてその当たり前である「うまくいかないこと」をただ維持していること、変化するのに時が必要な保留状態の「うまくいかない事」に「不快さ」や「つまならさ」を感じるのではないか。

それこそ、個人的な概念だが、幸福感は前進感にあり、停滞は不幸を感じさせ、後退はド不幸を感じさせると類似しているなと。

でも考えてみれば、先日も記載した高杉晋作の時世の句

面白きこともなき世を面白く

も同じで、「つまらない」と思ったのは「その時の俺がつまらない人間だからなんじゃないのか」と思い直したんだよな。

多分、行動が足りてない。

そんなのをつまらないと思う間もないくらいすべきことをしていれば、「面白い」か「もっと面白いか」の2択なんじゃないだろうか。

そう思ったときに視点が反転した。

実は世の中って俺が思っている以上に世間の概念的には満たされているのに、本人は毎日つまらないと思っている人が多いんじゃないだろうかと。

どう考えても、誰も得しない、オールウィンの真逆のオールローズのようなことをする人がたまにいるんだが、この人は口に出しては言えないけれども実は毎日がつまらないと思っていて、そこから抜け出すため、刺激を求めて誰も得をしない理に合わない理解できないことを実行し、勝者不在の自分劇場に周りを引きずり込むことで「つまらない」から脱出しようとしているのではないかとふと思わされたのだ。

行動によって開拓者としてジャングルを切り拓くのではなく、新しい何かを切り拓くことは何らかの理由で諦めているので、自分が用意する迷宮に新しい獲物を引きずり込むことで面白さを探す。

ベクトルが外ではなく、内に向かっている。

そう考えた瞬間に過去に出会った面倒臭い人たちの顔がフラッシュバックし1本の線としてつながる。

そういうことかと。

あの人達皆、純粋につまらなかったんだろうなと。

だから面倒くさい。

蟻地獄のように、蟻達にようこそ我が自分劇場へと引きずり込みたかっただけなのかもしれないなと。

でも、蟻側からしたら歓迎したい劇場ではないよなと。

ジャイアンのリサイタルみたいなもので。

そうか、ジャイアンのリサイタルはドラえもんの世界だけではなく、実は日々当たり前のように行われていたんだよな、見えないチケットを無理やり渡されて。

そう考えると、サザエさんもちびまる子ちゃんもドラえもんも物凄くシュールな世界なのかもしれない。

他人事の空想の世界と思っていたが、実は現実にリンクしているという。

そんなことを一つのワードから考えて、こんなことを書いている俺も読んでいる人に俺劇場へのチケットを渡しているのかもしれないね。

ようこそ、キャビーヌワールドへみたいな。

こんなことを思っていたら、文春オンラインのニュースを見つけた。

『 消えたママ友 』というエッセイについてのニュースで、これはほのぼのした絵柄と裏腹に「ママ友」をとりまく複雑な人間関係をシビアに描きだしたコミックエッセイとのこと。

2018年から主婦向けの生活実用情報誌『レタスクラブ』で連載され、2021年には優れた漫画作品に贈られる手塚治虫文化賞短編賞を受賞した話題作だそうだ。

その一言がちょっと俺にも刺さったというかそういうことかと思わされたんだよな。

あとがきに『妻は、現実から逃げ出したいという、うっすらとした欲求がある』と書かれていましたが、そんな気持ちが可視化される結末だと思います。

見て見ぬふりをしていた本音を暴かれるという意味で、かさぶたをはがすときのような痛みと心地よさがある読後感。

ジャイアンリサイタルも蟻地獄も現実逃避へのうっすらとした欲求なのかもしれない。

そんなことを思わされた。

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