こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の中島です。
年明けて最初の朝食は花びしのおせちの残り
いくらととびっことかに味噌丼だ
このいくらたまらなく美味い。
でもって、本日はいつもの弘明寺観音に初詣のお参りと、スパでデトックスして疲労回復デー
風呂上がりにダラダラと飲みながらB級グルメを楽しむの結構好きなんだよな
出社日が来るまではと炭水化物を解禁にしている。
初詣に行ってきたんだけど、おみくじは吉で書いてある事いい事だらけ。
流石、ラッキーしか起きないだけある。
俺は初詣とか結構大事にしている。
というのも、俺から見て運がいいとか、ちゃんとしていると思う人が神事をちゃんと行っているので、結果をスタート地点として考えている俺としては結果を出している人がやっている事はどれだけ荒唐無稽に思えたとしても正しいと決めているので、俺も模倣して神事を積極的に行うようにしているのだ。
実際に弘明寺商店街のように人が集まるところにある弘明寺観音のような神社は、意味がなければ1000年も継続して存在するような事はないし、人も集まらないと思うしな。
結果的に弘明寺観音は1200年以上続いている。
どんな老舗の和菓子屋だって1200年続いているとは聞いたことがない。
ということでネットで検索したら日本最古の和菓子屋が1000年創業なので1021年続いているのね。
一文字屋和輔 1000年 京都市北区
五郎兵衛飴総本舗 1177年頃 福島県会津若松市
上記が老舗の和菓子屋ランキングの1位と2位だ。
1位と2位の間に200年近い差がある。
少なくとも弘明寺観音は1200年以上続いているいう結果を出した寺社なのだ。
創業後の企業の20年の生存率は0.3%と言われている。
新しいものは20年ですら1000件に3件しか残らないのだ。
1200年続いたという結果は、それだけ稀有で、結果を起点に物を考える俺としては意味がないとは思えないのだ。
さて、そんな中、最近ニュースで見かけた神田沙也加氏といい鹿児島の無理心中と言い、大阪ビルの放火と言い、俺には理解できない事をするなと思うのだ。
俺はギャンブラーなので薄い確率という物の価値を十二分に認識させられている。
望む2分の1ですらまともに引くことは難しい。
自分がこの世に存在している確率の薄さは、年末ジャンボ宝くじの1等が3連続で的中するくらいの薄い確率で、奇跡的なラッキーを手繰り寄せて今自分がこの世に存在している。
そんな、奇跡的な幸運を持つ自分が何故にその薄い確率を潜り抜けて得た存在しているラッキーを手放すのかがまったく理解できない。
存在しているだけで超ラッキーなのに、その幸運を捨てるとか、当たりだと分かっている宝くじを目の前で燃やされている感覚になるんだよな。
ああ勿体ないと。
勿論、当事者じゃなければそのメンタルは分からないけれども、それまでの考え方というか何を学んだかって重要だなと思うのだ。
ゲームをやらない人も多い果とは思うが、有名な人気ゲームにゼルダの伝説というゲームがある。
初代はディスクシステムというファミコンにつなげる機器で、インスタントラーメンのチャルメラの袋麵のCMでプレゼントでもらえたソフトの記憶がある
今はニンテンドースイッチの「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」が歴代のゲームの中でNO1という人が多数いるくらいの人気ゲームだ。
このゲームなんだけど、大体が行き止まりの部屋で、アイテムなどを使って秘密を解き明かし、隠し部屋や抜け道を見つけて前に進んでいく。
秘密を解けなければ前には進めず、戻るか、解くまで粘るかしなければならない。
諦めた人がリセットボタンを押したりするのだけれども。
個人的に感じるのが、これって人の生き方と似ているなと。
神田氏も大阪の放火ビルも、鹿児島の無理心中も、行き止まりで謎を解き明かすことを諦めて、ゲームオーバーとなるリセットボタンを衝動的に押してしまった人なんじゃないかと思うのだ。
おそらくなんだが、普通に生活していて行き止まりの部屋に辿り着いたとして、どんなに絶望的な状況でもゼルダの伝説同様に必ず抜け道や隠し通路が存在していると俺は思うのだ。
その抜け道の存在が在るということを知らないのか、存在を信じないのか、探さないのかは分からないが、抜け道探しもせずにゲームで言う残機0の状態でリセットボタンを押してゲームオーバーを確定させるとか、俺にはまったくもって理解ができない。
どんな状況下でも、探せば必ず何か方法があるはずなんだよな。
勿論、選択を間違えて、選択肢が何もないというどうにもならなくなることもあるかもしれない。
けど、その状況に陥る前にいくらでも抜け道の謎を解けるチャンスはある。
だとしたら、ギリギリまで悪足掻きした方がいいと思うんだよな。
よく思うのが、潔さも必要なタイミングはあるが、見苦しさを感じるやり方はどうかとは思うけれども、それでも最後まで悪あがきして意思を貫いた方が本気で生きている人が少ない世では俺は好感が持てる。
関ヶ原の戦いで石田三成が敗北し捕らえられ、処刑場に向かう時、「水をくれ」と申し出たところ、「水はないが代わりに柿ならあるぞ」といわれ、それに対し石田三成は「柿は痰の毒だから食べない」と言ったそうだ。
この言葉に対し「これから死ぬ者がどうして体を気遣うのだ?」と問われた石田三成は、「燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや。大志を持つものは最後の時まで命を惜しむものだ」と言って断ったという
最初に20代の時にこの話を聞いたときは負け惜しみが酷いなと思ったけれども、今では受け止め方が違うんだよな。
彼もゼルダの伝説で言う抜け道を最後の瞬間まで探していたのかもしれない。
確かに西軍の大将となったのなら、部下も多数いたし、助けが入らないとは限らないしな。
逆に負け惜しみと考えた当時の俺はすぐに諦めてリセットを押してしまう側の、自分に起きている幸運にすら気づけない人間だったということかもしれない。
結果として石田三成は天下分け目の決戦に負けたとはいえ、少なくともその決戦を行えるだけの武将を集めた結果を出しているわけで、それ自体も凡人が出せる結果じゃない。
そんな歴史の話を考慮しても、ニュースとか見てそんな簡単に神懸った奇蹟で手にした人生降りんなよとか思うんだよな。
自分に起きる事件なんてものは大体の事は大したことじゃないし、有名な書籍の言う通り死ぬ事以外全部かすり傷。
まあ、こう考えられるのも、たまたま俺がラッキーな環境下にいたというだけなんだけれども。
それも考えようによっちゃ、一つの結果であって自分の行動がラッキーな環境を作ったとも言えるかもしれないしな。
ここのところ続いているニュースを見てそんなことをふと思わされた。
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