結果の決定者

思う事
ご挨拶

こんにちわ、地下鉄吉野町駅最寄りのカラオケBARキャビーヌの中島です。

 

著書

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こんにちわ。

地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。

こういう文章の記事とかもそうだけれども、人のただの受け売りのネタってまるで響かないけれども何故か実体験のエピソードって刺さるよなと思うのだ。

繰り返しになるけれども、俺は結果を一番重要視している。

過程や言葉とかは曖昧だと思っているが、結果に関しては確実だと思うのだ。

なので、結果を決めるのは誰かという過去にLINEのタイムラインで書いたと思うネタの焼き直しなのだけれども。

他にも俺は16年間続けているブログがあるんだが、こちらのブログの存在は現実の俺を知っている人しか基本的に伝えていないので、16年間書いているブログには書けないけれども、こちらなら記載しても大丈夫かなというネタの方。

俺はどうしてもギャンブラーの気質が抜けなく、山師のようにどこかで何かを当ててやりたという山っ気だけは捨てられない。

そのため、個人的にはユルスイングと読んでいるが、精度や打率は関係なしにひとまず打席に立って1万回でもバットを振ってやろうと思っている。

何しろ、これまた尊敬する投資家ウォーレンバフェット氏の言葉を借りるのだけれども。

投資の世界には見逃し三振はありません。

だからチャンスがくるまで見逃しをし続けてもいいという話なんだけれども、逆に言えば人生においても見逃し三振も普通の三振もないよなと。

三振がないなら、デットボールになってダメージを負うリスクの高い球以外は全部バットを振ってもいいんじゃないのと思えるのだ。

三振アウトにならないなら振った数だけホームランになる可能性がわずかでも上がる。

そう言った意味で俺は何でもやると決めているんだが。

全力で振ると疲弊して無限回バットを振れないので、無限回振れるように緩くバットを振るユルスイング。

たまたま当たればいいなという他力本願的に見えるやつだが、実際に俺は赤字の飲食店でたまたま振る事によるヒットを体験している。

多分、計算して狙いすまして当てた人なんてほとんど存在しないんじゃないかと思うのだ。

たまたまやった事が当たって、結果的に凄い人に見える人がいるだけで。

今一番可能性を感じているのがインターネット経由で知り合ったインド人と一緒にやろうとしているビジネスだ。

もう一方のブログで書けない理由はこのインド人と縁をつないでくれた方が、結局悪い人で、このインド人に出資させたお店を乗っ取ったんだよな。

散々口ではいい事言っていたけれども、結局最後は行動で裏切った人だ。

利害関係がないところでは計算したいい人さを行動にしていたが、ずっと俺は違和感を拭えなかったのだ。

結局、自分がトップになりたい人だったので、自己都合が優先なんだよな。

やはり利害関係があるところで利他ができる人じゃないと駄目だとこの方から学んだ。

で、この人が俺を弾いた後に優秀なインド人からお店を乗っ取ったんだが、まだ俺の正規のブログの方を毎日チェックしているらしいんだよな。

止せばいいのに。

だからインド人に迷惑が掛かってしまうので、そちらではこの話は書けないが、まあ結構執着が強い人なのでその方には伝わらないようにしているが、このブログも検索で見つけられてしまっているかもしれないけれども。

と前提の話が長すぎているが伝えようとするとどうしても長くはなるよな。

でもって、このインド人物凄く優秀で年収で1500万とかもらっている人だ。

月収にすると100万オーバーで月の所得税だけで俺の月収を軽く超えている。

高収入者には税金って本当に高いよなと思わされる。

そして俺にはラッキーしか起きないと思わされるのが、この方との縁もそうなんだが、ビジネスを一緒にやってくれようとしてくれているところなんだよな。

ちょっと傲慢に聞こえるかもしれないが、ちょっと前に記載したこの記事

JPモルガンのメール
こんにちわ。 地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。 もう5年くらい前にニュースに載っていた内容なんだけれども・・・ こんなJPモルガンの社長からのメールというのが話題になった。 掲示板に投稿した...

JPモルガンCEOの美女の質問への回答だ。

このネタでも記載したが、その記事の中に年収50万ドルを稼ぐ人はバカではありませんからとあるが、年収1500万稼ぐ人も当然馬鹿ではないし物凄く優秀だ。

結果的にそんな優秀な人が俺と一緒にやってくれようとしている結果があることがラッキーだと思うのだよな。

言い換えれば少なくとも優秀な人が一緒にやってもいいと思える結果を俺が出したという事。

自画自賛になるがそういう自己肯定はしないよりはした方がいいと思っている。

でこの方なんだが、世界的企業で品質管理の仕事をしているんだよな。

2020年度に課せられた目標がクレーム率30%削減しろというなかなかキツイミッション

何十年も続いている世界的企業でクレーム率30%削減って普通の人にはまず不可能だ。

ところが、このインド人は2020年の6月の時点でクレーム率を90%削減したのだ。

そのまま行くと、このインド人は目標値を大幅に達成することになるので会社でのポジションも悪くない物になる。

当然、その上司もだ。

でこのインド人がどうやって、その不可能を達成したかという話なのだが。

本質的な話ではないがクレームの件数を減らせという目標に対して、クレームがこないという事実ができれば目標達成という事になる。

実態は何も変わっていなかったとしても、顧客がクレームを言わなければクレームの件数は減るのだ。

そう考えた時、クレームにならないようなモノづくりや対応は管理は大事かもしれないが、その正攻法だと人間の本質は変える事ができないので、目標値にいかせるためには教育的な部分を含めてまるで時間が足りない。

限られた時間の中で結果を出すためにはそんな誰もが考えそうな正攻法の方法では駄目なのだ。

先日再放送でニトリの社長の激レアさんを連れてきたでも出ていたが、ニトリの社長は高校がすべて落ちた時に、校長先生に米俵一一俵もって挨拶に行き、不合格を合格に捻じ曲げたとのこと。

今だったら不正だと叩かれそうだが、望む結果に対して創意工夫をし、望む結果を出したのだから豊臣秀吉の鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギスと似ているところがあると思うのだよな。

ただ、これも昔から多分原則は何も変わっていないと思わされる。

社会は人が織りなして、人が結果を決めている。

人が当然すべてなのだ。

先ほどのクレームの話もそうなんだけれども、クレームにするかどうかを決めるのも人なのだ。

そしてクレームを受けるのも人

つまり、モノを良くしたり、対応を良くしたりといった正攻法は誰もが考える事だがそれだけで劇的結果を出そうとしても多分無理だ。

それよりもクレームにする側、つまり顧客にクレームになるような内容をクレームにしてもらわない方が圧倒的に早い。

甘えさせてもらう、許してもらう。

逆にいえば、物や対応など何も変えなくても顧客の窓口の人と懇意にし、その結果を変えられる人と協力を得られれば、毎日誰かしらと飲んでいるだけで結果を出して全員ハッピーにすることができる。

発想の転換が必要なんだよな。

人が結果を決めるのだから、目標の数値もそれを決める人と交渉したりして、仲が良ければ自分の都合の良い数字に変える事もできる。

今回のクレームの話を聞いたときにピンと来たのだけれども、この過程でいろんなフィルターがかかっており、クレームにならないチャンスポイントは無数にあるなと。

まずは、納品先等の受取人で止めることもできるし、現場のそれを使う人間でも許してもらえば止めることができるし、その間に対応すればいい。

クレームを言わなければならない窓口の人でも止めることができるし、クレームを受けた側の問い合わせ窓口でも止めることができるし、その上司と仲が良ければそこでも止めることができる。

正攻法よりも人なんだよな、多分。

意外に、皆自己都合でのみ生きていて自分の足元しか見えていないため、すべてが他者の力で結果が変わる事を本当の意味で理解している人は少ない。

できる人は皆他者の力を借りている。

そう考えると、やはり結果を決めるのも人なんだよな

自分が望む結果に対して、出てきた結果に否定されたら自分が間違っているかもしれないと考えるべきだと思うが、もちろん人が絡まない結果もあるけれども、本質的には人に否定されたら間違っているかもしれないと考えるべきなんだろうな。

ただ明らかにおかしな人も世の中には存在しているので、おかしな人に否定されるのは正しいのではないかと思うのだけれども。

当たり前かもしれないが、自分の望む結果をもたらせる人、それを決める事の出来る人、結果を変える事ができる人の協力を得ることを第一に考えるべきかもしれない。

そうか、逆に正攻法は最後の手段なのだよな。

営業で言う飛び込みや架電のように、正攻法は何もすることが無い時に仕方がなくするもので、重要なのは誰がどの結果に作用する力を持っているか。

それを把握し、そこに営業をかける事。

結局すべての人は営業を何らかの形でしており、生まれながらにしてすべての人間は営業マンというのは間違いがない。

会社の面接も、受験の面接もバイトの面接も、それこそ口説くこと事も口説かせることも、相手にとって自分を売り込んでいる営業行為だ。

スナックの集客でも言えるよな。

誰なら集客の結果をもたらせられるか、誰ならリピートを続けてくれ、他のリピート客を連れてくるか。

人事を尽くして天命を待つという言葉があるが、借りれる人の力をすべて借りてるのかだよな。

それをやりきったのかと考えると、意味合いが変わってくる。

事実は人の視点によって変わるのだから、事実や事象などは変な話、無視しても結果は変えられる。

この発想をもつべきだなと優秀なクレーム処理の方に会って思わされた。

で、このインド人に個人的に常々感じていたやばい人の対処法を聞いたら、一番早いのが配置転換らしい。

これも昔読んだ格言を思い出す。

馬は死ぬ前に売ってしまうことだ。人生のコツは、損失を次の人に回すこと。 ロバート・フロスト

やばい奴という災害や災厄といった損失を他の人に回すことか。

でも、これも人なんだよな。

損失を被ってくれる人を探すことか。

ちょっといい刺激になった。

考え方を誰が結果に作用するかをメインに考えるべきかもな

そう考えると、結果というものは一体誰が決めているのかという話になる。

事実というのはその個人の主観的な認識であると俺は思っている。

だから結果も事実も自分で決められると。

ただし、これは閉じられた世界というか、自己完結できる狭い範囲の話であって、受け止め方をポジティブに変えるだけで、視点を自分から別の人にずらしたら結果は異なるのだよな。

視点によって結果は変わるわけだ。

ただ、視点というのは誰の物かと言えば、人間の物だ。

ちょっと広義な意味になりすぎて理解しずらいと思うんだけれども、言い換えれば結果は人間が決めている。

そう事実と結果は自分という狭い範囲で言えば自分で決められるものだ。

ただ自分で結果を決められない範囲で視点を変えようが、認識を変えようが、見方を変えようが、結果は人、人間が決めているんだよな。

この結果は人が決めるという当たり前のような事でも、よく考えるとこれはかなり意味深だと思うのだ。

考えてみて欲しい。

自分がクレームを3割カットしろと言われたらどうするだろうか?

俺はまずはヒアリングと製造工程、管理とか考えてしまうが、もうこの時点で考え方が結果を出せない考え方になっている。

それは最後の数%をあげるための一押しであって、最初にする事じゃない。

クレームはクレームをつける側の認識と、クレームの受け手側のクレームを受けたという認識が共有されて、公表されて成立する。

なので、クレームを言う側がクレームを言わなければクレームにならない。

またクレームを受ける側もそのクレームを事実に確定させるような報告をする前に止まればこれまたクレームにならない。

どう考えてもこのクレームになるかならないかという結果はそれを決める人間が決めている。

所謂キーマンだ。

営業の立場でキーマンと考えると、当たり前だけれども決済権者、購入を決める人の事を指すがよく考えると、すべてにおいてキーマンは存在するのだ。

品質管理という観点で考えれば、それをクレームに決める人がいる。

だとすれば、何事においてもキーマンが自分の都合よいように決めてくれれば自分の閉ざされた世界ではなく、相手からも客観的からも共有される共通の望む結果が出るという事。

結果は人が決める。

こんな当たり前のことだけれども意識しているかしていないかで行動や考え方が大分変るんじゃないだろうか。

自分が求める結果は一体誰が決めているのか。

例えば会社員で言えば昇給を決めるのは一体誰なのか?

直属の上司なのか、その上なのか

それを考え、結果を決める人間を把握すれば自ずと行動が変わってくると思うんだよな。

で、物は何も変わっていなかったとしても、クレームを決める人がクレームではないと決めれば何もしなくても結果は変わる

だからヒアリングというか、結果を決める人に自分が望む結果に変えてもらう方法をするのがすべてにおいて最善なのだ。

この時に、人が結果を変えてくれるとしたらどういう時か?

視点を相手にずらして考える必要がある。

結果を決める人も多くはサラリーマンだったりする。

もちろん経営者かもしれない。

基本的に人間は自己都合でしか生きておらず、間違っている人ほど一次元の視点というか、目の前の自分の目先の損か得かという自分の足元しか見ていない。

こういういわゆるテイカーであると、果たして自分の望む結果を決める人が自分に都合の良い結果に変えてくれるだろうか?

答えは1万パーセント否で、よほどの美人の色仕掛けとか相手にメリットがある状態でないと結果は彼らは自分のポジションを守るために変えてくれない。

だとしたら、自分の望む結果に変えてもらうために相手の立場、ポジションで、自分の望む結果を提供する事でこういったメリットや相手の都合に沿った提案をすることでWIN-WINになる可能性があり、そうなれば結果を捻じ曲げてくれることも可能になる。

WIN-WINであれば結果は何もしなくても変えられるのだよな。

そのためにはヒアリングで相手のポジション、相手の立場は誰にどんな結果を決めてもらわなければならないか。

その把握が重要なんだよな。

当たり前かもしれないけれども。

スポーツのような明確な結果の決定と、社会における結果の決定が別物であるという認識をちゃんと持っている人ってどれくらいいるんだろうな。

そして結果が人が決めているので結果を人に変えてもらおうとすること。

この品質向上の方は自分で決めた事が結果になることを決めるポジションにいるときに人が結果を決めていることに気づいたらしい。

これを翻って考えて、他人の立場でも同じように結果を決めている人が存在していると思う事が普通に人にできるだろうか。

当たり前なんだけれども、競馬のように明確な結果が出る物をメインに見ていると、違いに気づかなくなりがちだ。

量子力学のシュレティンガーの猫じゃないけれども、観測者が観測することによって結果は決まる。

ただ、これは第4の目というか衆目や大衆による同時観測だ。

大多数の人間による同時の観測、結果の決定の認識。

それと個別の自分、相手、客観的な個の目と視点による認識と結果の決定では意味が変わるのではないだろうか。

小学校の国語の教科書で絵本のスイミーの話があったと思う。

スイミーは黒い魚で仲間は赤い魚。

ただ小魚だったため、スイミー以外の仲間はマグロにすべて食べられてしまう。

ところが新たに仲間を見つけたスイミーは自分が黒い魚なので目の役割をして小さな赤い魚の仲間と大軍を作り、大きな魚の形をしてマグロを追い払うという話だったと思うが、これってこの大衆の視点と同じ話じゃないかと今ふと思った。

というのも、小魚の視点とマグロの視点、でも小魚が寄り添う事で別の生物となった状態の視点。

大衆の視点もスイミーの大きな魚と同じで別物と考えられるのではないか。

そうすると観測をする視点という種類はかなり数が多く、自分から見える視点、相手から見える視点、客観的なミスターなんちゃらを仮定した視点、そして大多数で同時認識する視点

どの視点がメインかによって結果の決まり方も変わってくる。

であれば、かん口令のように情報を抑えて、大多数で同時認識する視点を排除して、知られさえしなければ、閉ざされた空間でまだ結果はいつでも変える事ができる状態なので、結果を変える必要がある内容はすべて秘密主義になるのだろうな。

そう考えると、視点が少なければ少ないほど結果は変わりやすく変えやすい。

何故なら決定権がまだその小さなコミュニティにあるから。

結果は人間が決める。

もう少し、意識すべきだなと再度思わされたのだ。

さて、自分の飲食店において考えた場合、誰が結果を変えるか?

当然、支持する結果か否かは客が決める。

その客を束ねるような客の長みたいな人が、俺にとって望む結果に結果を変える人になるのだろうかな。

となると、キーマン探しが必要

人を集めることができる近所の人が私にとって都合の良い結果を決めてくれる人なのかもしれない。

だとしたらそういった人をどう探すかだな。

そんなことを考えさせられる。

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