こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
もう何年前の事だろうか。
とここまで書いたとき・・・
よくよく考えれば最近、未来のことをネタにしていないなとふと思ったのだけれども。
いつもどおりウォーレンバフェット氏の言葉を借りれば「ビジネスの世界では、フロントガラスよりバックミラーのほうがよくみえるものだ。」とあるが、後ろ見ていても事故るだけだよな。
過去の話しかいない人とかかわってはいけないという話もよくあるけど、確かに過去の話しかしない人ってそこから前に進もうじゃなくて、昔の囚人についている重い鉄球つきの過去の栄光という名の足かせがついていて、もう頂点を超えて未来永劫下山中の人みたいになってしまうものな。
こんなやつね
過去に固執している時点でもうずっと劣化する一方みたいな。
だからこそ、毎日が今までの中でピークとなり、先の話をしたほうが良いかなと俺は思っている。
オールウェイズ重要なのは先。
だけど、結局は堂々巡りで重要な先のためにはナウなんだよな。
と大分余談で話がずれた。
丁度俺が18歳くらいの時に世間一般的にパソコンが普及し始めWINDOWSが当たり前になってきたころだった。
まだISDN回線を使っていたため、悶絶するほどにネット環境は遅かったのだけれども。
その時に全盛だったのがテキストサイトというやつで、侍魂とかロジックパラダイスとかNUMERIとかが有名だった。
個人的にはNUMERIのPATOさんは今でも検索してテキストを読ませてもらっている。
この方は文章そのものもそうだが、構成が上手いなと思うものな。
テンプレート化しているが、人の興味を引き付ける人間のエピソードが面白い。
フィクションもそれなりにあるよなと思うし。
フィクションで人の興味を引き付けるというのは凄いことだと思うんだよな。
また話がずれたんだけれども、そういったサイトの方の記事に「情報が氾濫するこの世界では何が正しい情報か分からない」という趣旨の記事を読んだことがある。
当時の俺は勘違いを勘違いと気づかぬまま生きていたので、自分の目で見ればわかるだろとか、まるで分かっていないシャア・アズナブルにポツリと「坊やだからさ」と呟かれてしまう状態だった。
で、今ならわかるのだが、本当に求める正しい情報って実はほとんど手にすることができない。
インターネットで検索していても表面的な浅い情報はいくらでも出てくるが、本質的に正しい情報ってのは出てこないんだよな。
何故か?
そこはテクニック等でその情報提供者が自己都合で情報発信しているからなんだよな。
正確で正解である必要はなく、検索してみてくれる人が存在すればグーグルアドセンスによる広告費とかを得ることができる。
そのため、正しい情報よりも検索で引っかかりやすい情報が上位に来て拡散され、それを模倣したサイトがさらに拡散を行うため、間違った情報がさも正しい情報として大勢を占め、その間違った情報を信じてしまった人たちがそれを常識にしてしまう。
無論、正しい場合もあるんだけれども、本質的な物を問う正解はまあまず出てこない。
何しろ情報提供者自体が間違いを正解だと信じている可能性があるからだ。
この記事でも記載したが、俺は常に秘密の抜け道の存在を信じており、現状を最良にするために何かないかと探している。
そのため、自分の求める答えを探してネット検索するんだけど、全部本質的に違うか、浅すぎて求める答えの後ろ姿すら見えない。
例えばだけれども、これは本当の情報だなと思った方の記事がある。
そのリンクを張ろう
この記事の話のように「私おじさんが好きなんですぅ」という女性の言葉
嘘ではないが真実を削りまくって簡素化して出た言葉なんだが、これも誤った認識を刷り込ませる分、罪だと思うのだよな。
これを額面通りに信じてしまった人は、真実に気づかないうちはずっと過ちを繰り返すことになってしまう。
これは極端な例だけれども、正しい情報ってのは世の中に少ないなと思うのだ。
最近のロシアのニュースも本当に中立な情報なんだろうかと疑問を感じているのだよな。
確かに個人的には侵攻したロシアに非があると思うんだけれども、情報発信側も国民にこう思わせたいと思って編集をしまくって、都合の良い部分だけを切り取ったニュースを発信してくる。
特に怒りの感情なんかを煽ると、正義の御旗が好きな日本人はすぐに情報発信者の思い通りに洗脳されがちだ。
だから、そもそも与えられた情報がそう考えるように意図された情報であるという事に昔は気づいておらず、自分は正確な判断ができると勘違いしていた。
自分で判断しているが、そう判断するように仕向けられているんだよな。
そう判断せざるを得ないような情報しか与えられていないというか。
じゃあ、何が正しい情報なのかという話になるんだけれども、それを見極めるにはどうしたらいいのかというか、俺がギャンブルに教わった正解の見つけ方をネタにしようと思う。
実は結構、漫画家の西原理恵子の言葉が結構刺さっている。
ギャンブルっていうのは、授業料を払って、大人が負け方を学ぶものじゃないかな。その授業料を「高い」って思うんなら、やらないほうがいい。
俺はギャンブルは自分がしていることもあって、肯定派なんだけれども、やるならなるべく若いうちがいい。
これほど甘えがなく結果先生が厳しく指導してくれるような物はない。
若いうちのダメージなど大したものではないし、そこで学べれば社会で通じるすべてを教えてくれると言っても過言ではないなと。
事実、インターネットで俺が知っているギャンブルで勝ち続けている人は皆社会的ステータスが高く、セルフマネジメント力が下手なできる会社員なんかよりもはるかに高い。
まあ、そこで俺も長らくギャンブルで結果先生の下で師事を受け、ようやく答えの出し方が分かったと思っている。
それが、陰陽なんだよな。
裏表と言ってもいいかもしれない。
陰陽太極図と言えば、これだ。
これに気づいてからアニメ鬼滅の刃の主題歌の紅蓮華の歌詞が刺さったものな。
世界に打ちのめされて負ける意味を知ったという部分だが。
ギャンブルにおいては勝ち方の正解というのは一方向からだけでは見つけられない。
大概の人は勝ち方だけを探す。
それも間違ってはいないんだけれども、それじゃあ正解にたどり着けないんだよな。
正解は勝ち方が示す道と、負け方を学び、負ける方法を避けることが示す道の交差点というのだろうか。
交差点で開いている入口といった方がいいだろうか。
勝ち方の正解と負け方の否定が導き出す同じ道
そこに正解がある。
だから勝ち方を学び、負け方も学ぶ。
そして負ける方法をすべて避ける道を学ぶ。
その勝ち方の正解と、複数ある負け方の否定、つまり消去法で残った道
それが寄り添うように同じ道にとなり、1車線から2車線となった物が正解だと思うのだ。
負け方を学べとか勝ち方で検索しても出てこない。
俺はギャンブルに負け方を学んでそれまで見えてこなかったものを見せてもらえるようになったと思っている。
同様に、日常生活でもうまくいく方法とうまくいかない方法があるはず。
エジソンではないが、失敗など存在しない、うまくいかない方法を学んだだけだという言葉にあるとおり、ギャンブルに変換すれば一つ負け方を学んだからそれを避けると勝ち方が近づくと言えるかもしれない。
そう、日常生活でも一緒なんだと俺は思うのだ。
上手くいく方法を学ぶ必要もあるが、同時にうまくいかない方法も学ぶ必要がある。
上手くいかない方法を避ける方が、実はうまくいく方法を探すよりもゴールに近づくのが早いと俺は思っているけれども。
そうなると、その情報が正しいかどうかもそうだけれども、2方向から見ればそれが分かるのではないかと思うのだ。
少なくとも1方向からだけの見方をすると、正しくない情報に翻弄されることになる。
となるとこないだのネタにもなるが、自分の望む結果に対して結果先生に2回否定されたら自分を疑った方がいいと思うのだ。
驚くくらい、人って自分を疑えないんだよね。
当たり前だという刷り込まれた常識が、何度同じことを繰り返しても、同じ結果が出るのに、その結果になったのを自分以外の原因だと考えてしまう。
そんなはずはない。
2回同じ結果、つまり再現性があったのなら、それが望む結果であればそのままでいいし、毎回うまくいかないのであれば、自分が正しいと思っている事が間違っている可能性が高い。
うまくいく方法を探すよりも、うまくいかない方法を探してそれをやめたほうがいい。
けれども、自分がうまくいかない方法をしていると結果に教えられてもそれに気づけないことが多いからループは生まれるんだろうな。
こういっても、俺も同じかもしれないけどね。
それでも、自分を疑うという概念を持てるようになったのはギャンブルのおかげだと思っている。
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