人は負けたがる動物だ。本当に負けたときの言い訳をすぐに用意したがる。
そんなバックギャモンプレイヤーの名言を思い出した。
まんま同じだなと思わされてしまった。
そもそも負けたときの理由を最初から用意しておくって勝つつもりがないとしか思えないのだけれども。
けれども、それ以上に自己防衛というか保身と言うか、正当化とか。
何が起きても自分は悪くない。
こういうのは皆自然に身についているのに、何が起きても自分はラッキーだは何故か根付かないだよな。
結構そうなった方が幸せに生きれるのに。
また脱線しそうなので、話を戻すと、いつだったかデールカーネギーの「人を動かす」というローランドの愛読書でもある本に、どんな悪党でもそうならざるを得なかった理由が存在していて、自分が悪いと思っている悪人は誰もいないとあった。
なかなか核心をついている話だなと思うのだけれども。
でも、これって仕事でもよく見かける話だ。
「できない」
できないんじゃないだよ、「やる気がない」を正当化するために「できない」と言っているだけであって。
まあ、「やる気がありません」と本当の事を伝えてしまっては世の中はうまく回らないので仕方がないことなんだけれども。
と同時に、誤解によって「できない」と思い込んでいるだけであって、他の視点からすればそうではないけれども、本人がそう思い込んでしまっていたら多分、その当事者にとってはその「できない」が真実なんだろうな。
まるで「小象の鎖」の話だなと思えてしまう。
過去にも記載したが有名な話で、概要はこういいう話だ。
サーカス団にいる象は、小象の時から脚に鎖をつけられ、杭につながれている毎日だった。
小象は、自由になりたくて何度も杭を抜こうとしたが、まだ力が弱い小象には杭を抜くことが一向にできない
その後も何度もチャレンジするけれども、杭は決して抜けなかった。
いつしか小象には、「杭は抜けないんだ、抜こうとしても無駄なんだ」との固定観念が植え付けられてしまう。
やがて小象は成長し、立派な大人の象になり、杭なんて簡単に引き抜く力も備わった。
しかし、小さいころに鎖でつながれていたゾウは「どうせ逃げられない」と思い込み、鎖を切ることができる力を身につけてからも鎖を切ろうとしないそうで、大人しくずっと細い鎖に繋がれているという話。
人間に置き換えてみても、自分の誤解を疑えない話とまんま同じだなと思わされる。
でも、誤解が自分を支配していると気づけば「勘違いのリバーシ」と言おうか、「誤解のオセロ」と言おうか。
本当にオセロのように一気に「誤解の黒の石」がひっくり返っていき、「真実の白の石」で盤面が埋め尽くされることもある。
何の話かと言うと両方ともまんま本日の俺の話なんだけれども・・・
今日、急遽相模原で機械のトラブル対応をしなければならなくなり向かった。
そして問題を解決したときの事、時計を見ると時刻は14時を指そうとしていた。
糖質カットでダイエット中だが、何を喰おうか考えていた時に、近所に自分が今までで一番美味いと思ったラーメン屋があることを思い出した。
調べてみると15時ラストオーダーの模様
ラーメンか・・・
絞っているのに太ってしまうよな・・・・
けれども・・・・
たまたまとはいえ、相模原までこの時間帯にいるときは滅多にないしな
そして夜じゃなくてお昼なら大丈夫なんじゃないか?
それにこの機会を逃せば次、いつその機会がやってくるか分からない。
さらに言ってしまえば、今までで一番美味いと思ったが本当にそうだっただろうか
確認しなければならない。
そして、俺は毎日の楽しいを確定させるんだろ?
だとしたら美味いと思うものを喰わないでどうする?
気が付けば、そうしたほうが良い理由ばかりを脳内が挙げている。
その瞬間、冒頭の言葉を思い出したわけだ。
人は負けたがる生き物か・・・
確かに正当化したがる生き物でもあるよな。
自分に苦笑しながら、相模原にある「貝殻屋」の濃厚カキソバを食べに向かった。
俺は確認マニアでもあるしな。
本当に今までで一番美味しかったかを確認しなければ。
もう元記事は読めなくなってしまっているが、「必殺!年賀状マニア」と言う方のブラック企業の話面白かったなとか余計な事を思い出す。
年賀状マニアなのに、年賀状だしたことがないお方でインパクトだけを求めたネーミングのようなのだけれども。
必殺って必ず殺すってことだもんな、年賀状でどうやって?と思わざるを得ないけれども。
そう、俺はネーミングだけじゃなくて、実際に確認マニアでもあったのだ。
以前はこれまた誤解の塊で、完璧な段取りを組むことを正しいと信じて好んでいたのだけれども、今は違うなと思うのだ。
完璧を求めることは無駄を極める事だ。
事前にいくら準備したってちょっとしたことで物事は変わってしまうので、変化ありきで考えないと無駄な段取りを多数組んで時間がただ失われるだけになってしまう。
だからこそ、今ならここだけは外しちゃいけないポイントだけは抑えるけれども、そこから先はゆらゆらと揺れる枝の先のように、風向きによってその場で解決すればいいと思うようになっている。
その場で解決できなくなりそうなことだけは無いように、ポイントだけは段取りを組むけれども。
で、仕事でもそんなんだったので、競馬などにおいても確認マニアだった。
そして、そもそも勘違いしていた。
今でもたまに飲み屋とかで見かけるが、自分を特別な存在と信じて疑っていないスーパー勘違い野郎。
見え方によっては誰もが確かに存在はオンリーワンであるため、特別と言えなくもないんだが、俺を知らない人から見たら、俺はただの風景と変わらない。
精神的な幼さや勘違いや、誤解を刷り込むステルスエデュケーション(周囲の教育による刷り込み)、まあ朱に染まれば赤くなると同じ話によって、自分の視点しか持っていない人が、他人がどう考えるかを理解できないのと同様に、他人から見たら俺は風景でしかないのに、自分ごとでしか見る視点しかもっていないがゆえに自分が特別だという誤解だけで成り立っていた。
まあ、確かに人間として生まれ、日本人として存在しているという奇跡的な確率を引き当てているので特別ラッキーな「生物」ではあるんだが。
でも、周囲もそんなラッキー同士の存在間においては、景色の一部でしかない。
昨日の対戦相手の話じゃないけれども、皆奇跡的な確率を引き当てているラッキーな生物同士なのだから。
それでもベイマックスの80%が優しさでできているのだとしたら、かつての俺の90%は誤解で構成されていた。
だから、確認マニアとして、その自らが特別であることを確認するために、競馬で厚めの金額を勝負して、結果に自分は生き残るべき特別な存在だと証明を求めた。
けれども、そうじゃないと学ばされるために十分な授業料を支払ったな。
ただ、俺は確認マニアなので、その結果を受けて本当にそうなのか?何かの間違いじゃないか?と自分の願望を否定されたことを受け入れられず、何度も競馬の結果に「特別であることの証明」を求める繰り返しだったな。
我ながら、自分を疑えなさ、誤解の深さは滑稽なレベルだ。
ただ、この特別ってのも誤解で、そもそも最初から特別な人なんていないんだよな。
結果的に特別な人間になることはあるかもしれないが、潜在的には特別な人なんて存在しておらず、競馬に特別である事の証明を求めるなんてものは、存在していない物を出現させろと言っているようなもので無意味の最高峰、無意味のエベレストだとか思わされる。
非凡な結果を出し続けることによって、非凡な人になっていく(実際は不明だが、そう認識されていく)わけであて、最初から非凡や特別ってことなどない。
そんなことを思い、誤解と正当化かなどど自嘲気味に笑いながら、結局はそうしたほうがいい理由しか見つからなかった(正確には見つける気がなかった)ため、相模原の貝殻屋へ
そして濃厚カキソバを注文
したらば、最初の一口で違和感が。
あれ?
牡蠣濃厚で美味いはうまいんだけど、これが一番とは俺思わないよな。
まさか、誤解だったのか?
そう思ったが、食べ慣れていくうちに、濃厚な味になれるとその後ろの出汁の味とかが分かるようになり、これはやはり美味いと再認識。
そうか、基本的に人から美味い物と呼ばれるものは後味が変わる食べ物だと認識していた。
でもラーメンも同じなんだな。
ラーメンの場合は一口ごとに後味が変わる物なんじゃなくて、最初の味になれると味が変わるものが美味いと言われているのだ。
思えば海老名市の「さがみ野」にある塩鳥チャーシュー麺の「ささやん」も町田にある北海道ラーメンおやじの「タンメン」も最初の濃厚な味に慣れてくるとより美味しく感じるようになっていくしな。
そういうことなんだと「ラーメン」の秘密を解き明かしたかのような感覚になった。
相変わらずスープも美味しくかなり満足させられた。
これはもう一度リピートしたい。
夜には井上尚弥の試合もあるし、今日はこの時点で良い一日を確定できた。
明日はどうやって良い一日を確定しようかな。
そんなことを思わされる。
にしてもここんところ診療後の仕事が多すぎる
年末は仕方ないかなやはり。
ただ、普段の仕事が報われたのか歯科医師から紹介の電話かかってきたんだよな。
こういうのをきっちり仕留めないと。
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