2023年新年あけましておめでとうございます。

営業マン飯2023年
ご挨拶

こんにちわ、地下鉄吉野町駅最寄りのカラオケBARキャビーヌの中島です。

 

著書

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月並みではあるけれども

あけましておめでとうございます。

本年度もよろしくお願いいたします。

当店キャビーヌも段々と新しいお客さんも増えてきましたので、さらに常連の皆様との出会いの場になっていけばと思います。

また、1月に再度チラシの配布とポケットティッシュ配りを考えておりますので、今年はコロナも落ち着き始めたので黒字化を目標としたいと思っております。

休業があったり、リピーターの離脱があったりとなかなか思うようにはいきませんが、できない理由を探しても仕方がないので、どうやってやるかを考えて実行していきたいと思っております。

さて、2023年度も始まったばかりなので自分自身へのリマインドではないけれども、この間読んで刺さった記事をネタにしたい。

個人的にヤフーニュースは必ず目を通しているのだが、たまに「おっこれは」という記事に出会う事がある。

基本的にネット検索では正確な情報は得づらい。

情報提供側の目的が情報提供の代わりに、テレビのCMと同じでグーグルアドセンスによる広告費稼ぎだからだ。

だから、表面の浅い情報しか出てこないサイトが検索上位に来るようにSEO対策されたりしているのだけれども。

であるからこそ、たまに「玉」と言ってもいいような情報を得るとついメモをしてしまう。

ヤフーのニュースの情報も時間が経過するといい話でも消されてしまうのでリンク先のアドレスだけを取っておいても駄目なんだよな。

文字をコピペして保存しておかないと。

そんなわけで久しぶりに保存した記事のネタを記載したい。

それは「ゴミ拾いをすると、人生に魔法がかかるかも」という2022年12月22日に発刊された本の著者の話。

年商約47億円の会社「プリマベーラ」を経営する吉川充秀氏が書いた本なのだが、「ゴミ拾い」自体が重要なのではなく、その考え方がこうじゃなきゃなと思ったのだ。

吉川氏が在住する群馬県太田市は人口22万3000人の市だ。

太田市の歯科医院を昨年度受注したので、2023年の今年、1月から2月にかけて俺も何度か太田市に足を運ぶことになると思うのだが。

吉川氏はこの太田市を中心に、8年間ずっとゴミ拾いをしてきたという。

ところが、今まで日常的にトングを持ってゴミ拾いをしている人を、太田市で見かけたことは一度もないそうだ。

すると、確かな確信が持てるようになるらしい。

それが、日常的にゴミ拾いをしている自分だけで、22万3000人で自分しかいない。

ということは、自分は22万3000人のなかの唯一の一人だと思い込むことができる。

すると、22万3千分の1の存在である「自分は運がいい」と信じることができ、結果的に運がいいと思われる事象が増えてくる。

私たちは、「自分は運がいい」とか「自分には価値がある」と素直に思い込めればいいのだが、学校教育により、「比較」という尺度、「数字」という観点から「証拠(エビデンス)」に基づかないと、思い込むことができない脳の構造になっている。

だからこそ、「人口何人中の一人」だと気付くと、超レアキャラでいれて運が良い思い込むことができるようになるわけだそうだ。

これって、俺がラッキーしか起きない人になったと決めた事と似ているなと思ったのだ。

考え方は間違っていない。

少なくとも結果的に年商47億円の社長と類似した考え方をしているのだから。

この誰もが読み飛ばしてしまいそうな、自分をあと押しするかのような記事に巡り合えたこと自体もラッキーだとは思うけれども。

吉川氏はゴミ拾いによって、3つの効用があるという。

一つが自己肯定感が上がるということ。

ゴミ拾いのように1円にもならないことをしていると、そんな自分が「馬鹿馬鹿しいけど可愛く」思えてくるそうだ。

これが巷で言われる自己肯定感とのこと。

自分を可愛く思えて自分が好きになるので、幸せな気分でいられる。

ゴミ拾いという行為自体に、金銭的なメリットはないが、それを補うに余りある精神的メリットがあると言えるそうだ。

そしてもう一つが自己効力感があがるそうだ。

俺のボキャブラリーに自己効力感という言葉はなかったのだけれども、これは読み解くと自信とも言い換えられる。

ゴミ拾いという行為を、もし続けることができたら、「自分はこんなにできた、こんなに拾えた」と思うことができるようになるそうだ。

道路に落ちていたゴミを一つ拾えば、一日一善になる。

そして、もしゴミを100個拾えば、一日一善どころか、一日百善を達成したことになる。

これが、「自分はこんなにもできた」という自己効力感

自分はできる

それが自己効力感だそうだ。

確かに大事な考え方で、ちょっと前に記載した小象の鎖ではないが、人間も象も本人ができないと思っている事は、実際にできてもやらない。

上杉鷹山の有名な言葉にもある。

「為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり」

出来ないのは人がやらないからだと言い切っているように俺には見受けられるのだ。

だからこそ、できるできないじゃなくて「やるんだよ」といつも思う。

この自己効力感も行動するためのエネルギー源だと思うのだよな。

やれると思っていなければ人は何もしようとしないのだから。

そして最後の一つが自己有用感

ゴミ拾いという行為をすることで、誰かに喜ばれているという、社会的なつながりを感じることができるようになる

これが自己有用感だそうだ

自分が誰かの役に立ったという実感で、まさにお役立ちの実感を得られるとのこと。

「自信」は、自己肯定感×自己効力感×自己有用感、この三つの掛け算でできていて、その三つを高める事で自信、つまり自分に対する信頼が培われていき、その結果、幸せを感じやすくなる。

「ゴミ拾いをしている自分って、偉い、尊敬できる。愛しい存在だ」と思えて自己肯定感が上がり、「今日は17個もゴミを拾えたぞ」と自己効力感を実感し、「自分がゴミ拾いしたことで、町がキレイになった、町の人に役立てた」という確かな自己有用感を味わえる。

なるほどねと思わされるのだ。

俺も思うんだけれども、2020年にラッキーしか起きない人に俺はなった。

何度も記載しているが、確定してしまった結果自体は後から変える事はできないが、それをどう受け止めるかは自分で選べる。

俺にはラッキーしか起きないという結果を決めてしまっているので、何が起きてもそれはラッキーな事象と最初から結果を決めてしまっている。

後から何故ラッキーなのかの理由を探すだけで、一見ラッキーそうに見えない事でも「塞翁が馬」ではないがラッキーであり続けるために必要な事と解釈できると思うのだ。

ただ、ラッキーだと決めて生きていればやはり雰囲気が変わるんだよな。

そこから人とのいい縁もたくさんできた。

そもそも無料でインド3回招待されているとかどう考えてもラッキー以外の何物でもない。

それこそ太田市の人口じゃないが、インドに無償で3回招待された人って何人に1人だろうか?

ラッキーだと決めている事で、実際に他のラッキーも起きやすくなると結果的には俺も思う。

スパイラルと言う言葉がある通り、良い方も悪い方もループしていくと思うのだ。

だからこそ、良いスパイラルに入るためには先に考え方や言葉をそちらに合わせて、自分の無意識の潜在意識をラッキーしか起きないと洗脳と言うか教育しなければならない。

ギャンブルに学んだけれども、重要な勝負で何故か必ず2分の1の駄目な方を選択してしまう事がある。

後から考えると、何故その瞬間にいつもとは違うそちらを選択してしまったかがまったく分からないのだ。

何者かに俺の思考を操られている。

そう思った事が何度かある。

けれども、よくよく考えると俺の思考を操っているのは意識している俺じゃなくて無意識の俺なんだよな。

だからこそ、無意識の俺を自分の都合の良い考え方をするように刷り込まなければならない。

それがラッキーしか起きないと決める事だと俺は思っている。

無意識の思考は自分が考えているような人間になるようにしている。

ラッキーしか起きない人と決めれば、脳はそうであるように考えるとされているのだ。

人間の脳は3割しか使われていないと言われているし、7割は無意識

だとしたら比重の大きい方を都合よくした方がいいと思うんだよな。

よく言うセルフイメージの実例の話でもこういうのがある。

ある起業家が、すごく貧乏だったころでも、外へ行く際に身に付けるもの着るものは一流品。

普段食事も1食しか食べていなくても、人と食事をする時は気前よくおごるということをしていたそう。

そんな彼は数年後、本当に億万長者になった

この話は金持ちになりたければ金持ちのように振る舞えと言われており、お金持ちならどういう行動をするのかを考えて、それに沿って生きるようにしていたら、現実が追いついてきたとされている。

今現在お金持ちでないからと言って、安いものを着たり身に着けたり、あるいは外食の時などにできるだけ安いものを頼もう、お金を使うのを減らそうと出し惜しみしていたら、いつまでたってもお金持ちになることはないと言われている。

また、そうすることは、自分を卑下していることになると。

お金持ちになりたかったら、お金持ちが体験している世界を自分で体験し、お金持ちがする行動やその世界に慣れていくことが必要だと。

これってちょっと前に記載した、経済力ができてから美味い物を食べるのではなく、先に美味い物を食べて、またこの美味い物を食べるにはどうしたらよいかを考えて行動していくのも同じだと思うんだよな。

まあ、こういう話を記載すると普通の人から異常者だと結構否定的に思われるもんなんだけれども。

でも、よくよく考えて欲しいと思うのだ。

ラッキーしか起きないと決めた思考を何言っているのと否定する場合

そう思った今の自分の結果はどうだろうかと。

他の人が自分になりたいと思うような結果を自分は出しているだろうかと。

自分になりたいと思う他人は果たして存在しているだろうか?

かつての俺と同じで、教育による無意識の自分に思考を縛られ、考え方を操られていないだろうか?

一般的な考え方をしているから結果も一般的なわけであって、異常に良い結果を求めるならやはり一般的な思考では駄目だと思うのだよな。

その考え方は誰かにとって、そう考えてもらう事が都合がよいので、そう考えるように教育された思考なのだから。

ゲリラ地域の少年兵が人を射殺する事を褒められて教育されれば、人を射殺することを良い事と考えるのと同じだと思うのだ。

さらに言えば、過去の常識的に振る舞ってきた普通の思考は何も俺にもたらせなかった。

けれどもラッキーしか起きないと決めた思考は、俺に幸運と幸福感と自己肯定感と人との縁とラッキーをもたらせた。

だとしたら多分、俺には今の思考は結果的に間違っていない

そんな事をゴミ拾いのヤフーニュースを見て思ったのだ。

さて、そんなわけで元旦の最初の食事は自宅でステーキ

和牛だね、これ

柔らかいし、分厚い。

そして塩コショウのシンプルな味付けのレアな焼き方が自分好みの味で美味い。

ステーキで思い出したけれども、自宅近くの個人的のNO1のステーキ店

チェロキーが2か月くらい臨時休業で開いていない。

おそらくはもう・・・・

味とコストパフォーマンスは最高だったんだが、接客が・・・

ああいうのがジワジワこういう結果をもたらせるんだろうな。

ツバメソースのあのレアステーキをもう食べられないと思うと、寂寥感を感じてしまう。

肉肉しいあのハンバーグのオニオンソースももう食べられないのだろうなあ・・・

つい遺影のように過去のステーキとハンバーグを載せてしまった

さて、今日から年の初め

去年よりも毎日の楽しいを確定していきたいと思う。

積み重ねた楽しいのミルフィーユの層の数だけ、最期の時に納得できる。

今年もより1日、1日の楽しかったを確定させようと思うのだ。

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