白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき
1787年の江戸時代に始まった寛政の改革で白河藩主の松平定信が行った改革に対して皮肉を込めた川柳を思い出す。
寛政の改革の厳しい財政改革が経済を停滞させ、文化も廃れさせたことで今の政治よりも、たとえ腐敗政治だったとしても、生活も豊かで文化も花開いた以前の華やかな「田沼意次が行っていた政治の時代」が恋しいという狂歌だ。
「水清ければ魚棲まず」とも言われ、綺麗すぎる水の中でだと魚は生きられないとも言われている。
クリーンさもいきすぎては、生物は生きていけないのだよな。
過ぎたるは及ばざるがごとしとはよく言ったもので、「やりすぎ」は求めた結果とは逆方向の結果をもたらせる。
こないだ記載した「奇跡のリンゴ」の話でもあったのだが、農薬をリンゴに撒かないままにリンゴの木の周りの雑草を抜いてしまうとリンゴが枯れるそうなのだ。
古代中国の秦の始皇帝の法律においても、その法が厳格すぎて、民衆は罰を恐れて落とし物すら拾わなかったとされている。
なんか今の日本も似ているよな。
不謹慎という名の下に相互監視を行い、逸脱者をストレスのはけ口として血祭りにあげる。
自粛警察とか不謹慎狩りとかまさにそうで、大義名分とか正当化できる理由があると結構正義は暴走する。
その結果、正義の名の下に他者を糾弾する事でどんどん自分自身の行動にも制限がかかり、自らの首を絞めることにもなるのだ。
にも関わらず、古代ローマのコロッセウムのように剣闘士たちによる残虐ショーを見物するかのように、正義の御旗の下では人は人を吊るし上げ、その犠牲になる者の末路の目撃を求めているようにも見える。
自殺してしまった元女子プロレスラーの「木村花」なんかはまさにこの大衆の正義の暴走による犠牲者だよなと思うものな。
人間の本質は変わらず、中世の魔女狩りのように、魔女裁判で有罪判決を受けた者は公開火炙りにされるのだが、その見物人は多かったとされる。
そういう歴史を考えると、口では否定しながらもどこかで自分ではない誰かが残虐な結果になるのを求めている人が多いんだろうな。
だから事故とか事件が起きるとその様をスマホで撮影し続ける人が存在しているというのも、「だろうな」と頷けるのだ
Yahooニュースか何かでも、雑誌の記者が人の不幸話しか記事として売れないと記載していたのを思いだす。
皆、本来自分にはラッキーしか起きてないのに気づかないから鬱屈しそうなるんだろうな。
まあ、また寄り道してしまったのだけれども、寄り道から本来の道に戻ると、清すぎても駄目なんだなと思わされたのだ。
まんま俺にも言える話なんだけれども、最近だがよく行くお店が以前と比べて客が固定化されているなと思ったのだ。
俺が知らないお客さんが多くないときついだろうなと思うのだけれども、いつ行ってもほぼ同じ客に固定化されている。
俺もちょっと前に違和感を感じたのだけれども、スタッフ全員が見た目が違うだけで中身が同じ人に感じたんだよな。
当り障りもないし、常識的で無難
俺自身も正解に近づくのは失敗の否定の連続だと思っているのだけれども、ちょっと待てよと思ったのだ
飲み屋って嗜好品と同じだよなと。
嗜好品は必要な物ではないし、好きだから嗜む物。
タバコや酒なんかがそれにあたると思うんだが・・・
基本的に突き詰めればそれって毒だよなと思うのだ。
それと同じで、飲み屋も嗜好品と同じなんだから無味無臭なんか求められていないんじゃないかと思ったのだ。
多少なりとも毒がなければ駄目なんじゃないかと。
よくよく考えれば、ワサビの無い寿司も七味の無い蕎麦もスパイスの無い星の王子様カレーもそうだけれども、ずっとそれだったら刺激がなく物足りなくないだろうか?
アルコール中毒と言う言葉がある通り、人はどこかで毒を求めているんじゃないかと思ったのだ。
これまた大分前に記載した話だけれども、平山夢明氏のホラー本ででてきた「終末ラーメン」の話と同じだと思うのだ。
サラッと再度記載すると、そのラーメン屋に来て大将に写真を撮られるお客さんは必ず亡くなるというラーメンだ。
そのラーメンは高カロリー、高蛋白、食塩過多、科学調味料過多のラーメンで、これを週に四回も五回も食べて、脂肪肝になって体に蕁麻疹が出ても、懲りずに食べにき続ける客を写真に収めるそうなのだ。
でそのラーメンを作っている大将の言葉がこうだ。
「東京ってとこは味にヒステリーがないと売れねぇ。結局、毒じゃなきゃ誰も旨いって言わねえんだ。変なとこだよココは。旨い旨いって銭払ってまで毒喰いたがる奴がウジャウジャいるんだ」
そう考えると、まったく毒も濁りない清すぎる世界も求められていないのかもしれない。
これって食べ物だけじゃなくて人にも言えるんじゃないかと思ったのだ。
よく純粋に良い人だけである人がつまらない人と言われるように
そして俺自身も自分の店を無味無臭側に近づかせようとしていないかとちょっと思い直した。
俺が大丈夫だと思うちゃんとしたスタッフだけで構成しては無毒化されてしまうのではないかという。
まあ、毒が強すぎても駄目だとは思うのだけれども、透明度が高すぎる清水にしても駄目。
「嗜好品」と「必需品」で考え方を変えなければならないかもなとなんとなく思ったのだ。
嗜好品が無味無臭なら味気なくて、誰も嗜まないよな、そりゃ。
さて、そんな事を考えながらも、今日は会社で仕事と神谷町で契約を仕留めるための商談
女医さんなんだけど多分仕留めた。
その帰りに会社近くの赤坂見附の和食居酒屋でランチ
看板見たら、ダブル焼き魚定食がある。
なかなかの俺が求めているランチそのもので「最高かよ」と思わず言いそうになった。
文法的にはおかしいのだけれども、そのフレーズが頭に残っており、実際はなんなんだろうなとネット検索すると・・・・
「最高かよ」とは本来のツッコミ的な用法というよりも、驚きや感動などを伝えたいときに名詞や形容詞の後に「かよ」をつける「〇〇かよ」といったネットスラングの一種らしい。
でもって、「最高かよ」(さいこうかよ)はアイドルグループHKT48の楽曲でもあるらしい。
そうですか以外のコメントが思い浮かばなかったが。
そんなわけでダブル焼き魚定食をライス無しで食べたら、魚のオイルが体に良さそうでいい。
焼き魚って1尾じゃ足りないし、米食わないなら2尾は欲しいよね。
まあ、今日もいいランチだったんじゃないだろうか。
一日一楽
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