こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の中島です。
繰り返し記載してしまっているかもしれないが、自分における事実ってなんだろうかと考えた時に、自分が思う事実とは自分が事実だと決めた事だと思うのだ。
言い換えれば、自分が事実だと信じた事が当人にとっての事実となってしまう。
最近以前よりみかけるようになった正義の暴走族なんかも自分がそれが正義だと決めたため、正しいと思って行動しているが、客観的に見れば正義の御旗を大義名分にウクライナに侵攻したロシア軍みたいになってしまっている人もいる。
例えばなんだが、古い話になるが東日本大震災の際に俺はパチンコメーカーに勤めていたんだけれども、大震災直後にパチンコ店が営業をするのは不謹慎で怪しからんと正義の暴走族に不謹慎狩りにあった事がある。
東北がこんなに大変な時期なのに、パチンコで遊ぶとは何事かと。
感情論としては分からなくはない。
けれども、パチンコ店の店員にも家族がいて生活がある。
それを不謹慎とすることで、その人達の生活を破綻させることは、はたして正義と本当に言えるのかと思ったのだ。
ある意味、不幸の手紙のように自分達が大変なんだから他の人も大変に殉じるべきみたいな殉死を求める大名とかホラー映画「リング」のように道連れを求める心理のようで物凄く違和感を感じたのだ。
2年前に初めて緊急事態宣言が発令された時も自粛警察という名の正義の暴走族が、自分たちの正義の押し付けによる嫌がらせを駄菓子屋などに行っていた。
正義を自己完結し、自分の中での正しさを自分が行い続けるのは構わないが、他者を自分の正義に巻き込むのは強制的に他者の思想を自分の思想に従わせようとするエゴに感じるのだ。
その正義という名の大義名分を手にすれば何してもいいと思っているような行動をする人が最近増えてきたなと感じて、他者の思想を力づくで自分に従わせようとするように見えて、余程日本の方が民主主義を誤解した社会主義者が多いんじゃないかとたまに怖さを感じるのだよな。
と前置きが長くなりすぎたけれども、俺は事実ってのは人の主観の数だけ存在すると俺は思っている。
だとしたらなんだけれども、主観によって事実が決まるのだとしたら、事実って選べるよねと思うのだ。
起きた事象を変える事はできないが、その事象をどう解釈するか、どう咀嚼するか、どういう事実だと決めるか。
これは自分で決めることができる。
だとしたら、他者に干渉しない事であればとことん自己都合に良い解釈をした方がいいと思うのだ。
以前だが、パチンコメーカーに勤める前、俺はスロプロとして1年生活をしていた。
その時のことなんだが、スロットには設定があり、設定が高ければ高いほどメダルが出やすい。
当時は設定札というものがあり、丁度隣の人と同じ設定札が俺の台にも刺さっていた。
でその隣の人は毎回7揃い狙いをするのだ。
スロットは大当たりフラグを引き当てないと決して7は揃わない。
けれども、隣のその人は常に7を揃えようととしていたんだよな。
で俺は普通に大当たりフラグが成立するまでは淡々とリールを回していた。
そして、結果は俺は全部飲まれて負けたのだけれども、隣の同じ設定を打っていた人はみるみるコインを増やしていった。
違いは何かと思った時に、偶然かもしれないが隣の人は大当たりを引けると確信しながら、自分を大当たりを引ける人間だと信じていたと思うのだよな。
一方俺は引けたらいいなとかちょっと意識が甘いというか、偶然に投げてしまっていた。
実は人間の認識が結果に影響を与えるんじゃないかというアメリカの実験がある。
その実験は大学で1クラス30人のクラスを2つ用意された。
そして、一方のクラスには何も考えずに、サイコロを1万回振らせ、もう一方のクラスには6が出ることをイメージさせながら、サイコロを1万回振らせた。
結果はどうなったか?
当然、30人が1万回振るということは、試行回数がトータルで30万回になる。
理論上、確率は収束するはず。
何も考えずに、サイコロを振ったクラスは平均して6が出る確率は6分の1だった。
しかし、イメージしたクラスは6が出る確率に収束が見られなかった。
つまり、6が6分の1ではない確率ででた。
俺の記憶が正しければ、5.5分の1くらいだと思います。
30万回分の試行データがあって、分母が0.5変わるというのは驚異的なこと。
つまり、人の念が無意識にイメージした数字が出るのに適した力をサイコロに伝えているとされている実験だ。
あながち荒唐無稽な事ではないと俺は思っていて、理論は間違えるかもしれないが結果は間違えない。
結果が偏ったなら、偏る要因となった過程がある。
考え方は結果を起点として考えるべきだと思っているので、偏った結果は何の違いかと考える方が正解に近づけると思うのだ。
で認識が結果に影響を与えるとしたら、個人的にはこの記事で書いたように無意識の自分への刷り込みや教育が結果に影響を与えると思っているけれども。
よく人間は自分が考えているような人間になると言われている。
これも事実で、ラッキーだと思っている人はラッキーな人になるし、不幸だと思っている人はより不幸になる。
だとしたら、自分はラッキーだと刷り込んだ方が絶対に良い。
英ハートフォードシャー大学で心理学を教えるリチャード・ワイズマン教授は、不運な人と幸運な人の違いは何かを解き明かすため、数多くの実験を行っていた。
そのうちのひとつでは、被験者に対し、新聞を渡して読むよう指示しました(被験者たちは、自らを幸運だ、または不運だと思っている人たちだった)。
ワイズマン教授はその新聞の中ほどのページに、1面の半分ものスペースを割き、大きな文字でこんなメッセージを載せていたとされている。
「実験スタッフに、これを見つけたと伝えれば、250ポンドもらえます」。
大きなスペースであったにもかかわらず、このメッセージを見つけられた人と、見つけられない人がいた。
そして、自分は幸運だと回答していた被験者の方が、高確率でこのメッセージを見つけたとのこと。
逆に自分を「不運」だと思っている人は、いつも何か不安を覚えている様子が見受けられ、そのために観察力が損なわれたようだ、とワイズマン教授は記している。
そう、運の真実は自分がラッキーだと思っているかどうかで、気づけるかどうかも作用してくる。
なので日常生活は無意識の自分が直感的に選択をすることが多いのだから、無意識の自分を自分の都合の良いように教育すべきだと思うのだよな。
というわけで、俺には何が起きてもラッキーしか起きないと決めている。
一見不運そうなことでもそれは塞翁が馬で、より不幸を回避したか、ラッキーが起きるためのきっかけに必要な事象だと解釈することにしている。
ラッキーしか起きないと決めると、基本的に何が起きてもラッキーなので精神衛生上も非常に良いし、無意識がラッキーしか起きちゃいけないと教育されてくれるので、無意識に自分にとってプラスになる方を勝手に選択してくれるようになる。
人によっては荒唐無稽だと思われるかもしれないが、もしその荒唐無稽と思う正義が正しければ、他者から見て相当に現状自分に起きている結果が恵まれている物でないと説得力を欠くことになってしまう。
でそのために何をしているかなんだが、俺は自分にラッキーノートをつけている。
生まれて来てからラッキーだったことだけを抽出し、編集し記載してるアプリがあるんだが、読み返す度に確かにラッキーしか今まで起きていないと思えるのだよな。
実際に傍から見ても最近はラッキーな人であるという事を言われるようになったので、最近の俺に起きている事象は結果的にはラッキーな事しか起きていない。
なので、自己都合に良いように今までの人生を編集して、嫌な事はばっさり切り捨てて、ラッキーだったことだけを抽出していく事でツキを呼び寄せられると個人的には思うのだ。
まあこれも俺の主観が決めた、他者に干渉しない俺だけの事実なので、万人の正解ではないが、俺の結果的には間違っていないと思っている。
自分に都合よく自分の事実を編集しよう、その方が多分より幸福で幸運になれる。
そんなことを思うのだ。
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