こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
暴君と聞くと太宰治の小説走れメロスの暴君ディオニスを思い出す。
知らなかったんだけれども、走れメロスって中学国語の教科書に50年以上掲載されている作品なのね。
それで国語の問題で何故ディオニスは暴君になったかという問いがあったりするんだけれども、結果的には世継ぎになりそうな人をすべて処刑しており、その座を追われるかもしれない事件が起きた事によってそうなったとされてる。
言い換えれば誰かの自己都合が暴君を作り出したとも言えるかもしれない。
というのも自分が経営者という立場になるまでこれも分からなかったので、やはり何でもやる事で得られる視点ってあるなと思ったのだ。
中小企業の創業社長とか、飲食店オーナーとかもそうなんだけれども、客観的に見て何故こんな狂人みたいなことしたり言ったりするのだろうと思う事が多かった。
むしろまともな人は経営者にいないんじゃないかとすら思っていた。
けれども、ようやく分かった。
暴君の経営者は周囲の人が作り出しているなと。
サラリーマンなどの従業員でいるうちは責任がないから分からないのだけれども、自分で経営するようになるとすべての責任は自分にある。
自分が判断を間違えたりすると、即座に結果が自分に返ってくるようになりその後始末やらなにやらは全部自分でしなければならない。
にもかかわらず、自分の常識や良識が通じない事がある。
例えばなんだが、俺は自己都合を他人に押し付けるような事はあまりしない。
20年以上会社の看板を背負って営業をして生きてきているので、体感的というか経験的に自分の都合を優先するような話をする人から人はモノを買わないと分かっている。
むしろ、売ろうとは思っていないし、こういうメリットとデメリットがあるという話を嘘偽りなく紹介するだけで、買う側も猜疑心が強かったりするが、ちゃんとしていれば大体買ってくれる。
だから、自分の都合は後回しにするという考え方が根付いているんだが、そういう部署じゃない場合って自己都合による自己主張した方が良いと思う文化が根付いていたりする。
いや、それあなたの都合だけで物言っているけど、それをすることで経営にメリットってあるの?という自己都合による勝手な話ばかり聞かされているうちに他人不信になるんだろうなと思わされるのだ。
信じがたいくらい、皆勝手な自分に都合の良い話しかしない。
でその通りにして結果が悪くなったら責任を背負うのは経営者。
そう言う経験を経営者は数々してきているのだと思うのだ。
結果として、人は好き勝手自分の都合で物言って責任はこちらなんだから、どうせ責任背負うなら自分が正しいと思った事だけやった方が良くない?と思うようになり暴君が誕生すると思うのだ。
俺自身も暴君入りしそうで危ないなと思うけれども、結果を起点に物を考える視点を手放さない内は大丈夫かとは思っている。
結果を出している人の言う事は正しい。
けれども、ありとあらゆる人が自分の都合の話しかしないなと感じるようになると、すべての人の話がその人にとってどんな都合が良い事があるんだろうなと疑うようになると思うのだ。
最初は良かったけれども駄目になる会社って結果を出している人の言う事を問答無用にぶった斬って、喧嘩別れして売れなくなった会社だったりする。
そうなったのも勝手な自己都合の話しかしない周囲が原因だったりするんだろうけれども、正誤は結果で判断した方がいいよな。
売上が良ければ信じた方がいいし、そうじゃなければ信じない方が良い。
本当に他者の都合とかは無視して、自己都合の勝手な話を当たり前にする人ってどういう発想なんだろうな。
目の前の人を悪い人に変えているのはそういう人なんじゃないかという気もしているが。
まだまだ経営としての学びは少ないけれども、他界した親父がよく言っていた皆勝手だからという親父の小言はたしかに冷酒と共に後で効く。
人の勝手に振り回されちゃならないけど、それが当たり前に起きすぎると全部ロクに聞かずに却下する経営者が増えるのも分かる気がするのだ。
そして暴君化する事も。
判断軸は結果、それをブレずにしておきたい。
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