こんにちわ。
地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。
さて、最近会社のうちの部署に俺と同い年くらいの女性社員が入ってきたんだが、この娘、人間的には悪い娘じゃなく、結構な美人だとは思うんだけど、先々を考えると不憫でならないんだよな。
俺の部署は販売専門の営業部署なので、会社から求められていることは受注することの一択
当然、もっと費用対効果を上げたい会社としてはいろいろ他にも求めてくるけれども、それは希望であって本質的には俺がしなきゃならない義務は新規顧客を獲得することだけ。
逆に言えば、新規顧客さえ獲得していれば俺みたいに自由にやっていてもなんだかんだ言って何も言われないし、結果を出していれば会社はそうあるべきだと思うんだよな。
言い換えれば、自分の価値は自分の出す結果で示せという事。
多分なんだけど、この新人の女性社員は子会社の営業から回ってきたんだけれども、そこで営業は無理だなと判断されて、こちらで不可能を悟らせろという意味で入社したんじゃないかと思うのだ。
この娘は営業の仕事をずっとしてきたわけではないので、営業の基本的な知識や思考が足りなさ過ぎて多分ずっと受注できないと思うのだ。
そうすると、いつまで経っても毎月「受注0件ちゃん」という給料泥棒になってしまう。
不適材不適所にした会社が悪いよなと思いながらも、販売専門の部署で一ヵ月で受注「0件マン」も「0件ちゃん」も必要のない存在だし、そうなったら正社員だろうがなんだろうが追い込まれて退社せざるを得なくなるのは必然なんだよな。
もちろん、入社したてで人のネットワークも知識もない状態なら3か月~半年くらいは仕方がない部分もあるが、中途採用は基本即戦力なので、そこまで時間は与えられないんだよな。
俺も2年目以降、会社に存在できる価値を結果で証明するため、一ヵ月単位で受注「0件マン」になったことはない。
販売専門の部署にいる以上、どうしても売らなければその場に存在していい人間にはならないんだよな。
だから、絶対にそう遠くない未来に、詰められて精神的に追い込まれることになることが、俺から見てもう分かっているので、この新人の女性社員が可哀そうだなと思うのだ。
人間的に悪い娘じゃないので、なおさらそう思わされる。
今は、まだ2か月目くらいなので、楽園の温室にいれるけれども、知らぬが仏状態の本人にはそんな悲惨な未来が待っているという事は露知らずなんだろうなあと。
なんか漫画の鬼に食われるために牧場で育てられている人間の子供の話、約束のネバーランドのまんまだなと思うのだ。
本人たちはずっと楽園が続いて幸せに生きていけると思っているけれども、俺はその子が近日中に出荷され鬼の食用とされてしまうことを知っているという。
やたら俺の商談に同行したがるので、可能な範囲で救えないかといくらその事実を俺がやんわり伝えても、営業を若いときにやったことがないのでそんな社会認識がないから理解されない。
営業は自分の価値を自分の結果で証明しなきゃならない。
それが受注件数だったり、売り上げだったり。
じゃなければ、その場は自分が存在していい場じゃなくなる。
そんなこと当たり前なんだけど、たまにそれが分かってない人に会うと、不憫だなと思うのだ、本人がどうにかしなきゃならない問題なので救うことはできないけれども。
そんな中、飲み屋の女の子で頭の回転が速い娘がいるんだけれども、俺への営業が上手いなと思う娘がいる。
タイミングとバランスを考えており、ちょっと俺を利用しすぎたかなと思うとしばらく営業してこない。
でもこれなら呼べるだろうと思うとすかさず営業してくる。
何気にその考え方を、同じ仕事をしている身の視点として見ると結構感心していて、この娘も分かっているんだよな。
自分が客を呼べなきゃ、その飲み屋で自分の存在する椅子がなくても文句言えないという事に。
本来俺なんか呼んでも、そのお店のシステム上、指名だのドリンクバックだの入れても自分の懐に入ってくるのなんか1000円くらいしか変わらないと思うのだ。
でも、そのために他の時間使って同伴したり、LINE送ったりと時給外の仕事をしている。
ただ、自分がいるときに自分で集客しないと、自分の存在価値がそこにないことを仕事としてちゃんと理解しているんだよな。
金をもらっている以上、自分の存在価値を自分の出す結果で証明しなきゃならない。
営業をしている身からすれば当たり前の認識なんだけど、その当たり前を当たり前にできる人間って俺が思っているよりずっと少ない。
仕事ってのは年金とかの権利じゃない。
価値を提供してのその対価としての金だ。
衝撃を受けるのが、たまに仕事はそこに所属していることでお金をもらえる権利を与えられた事という勘違いをしている人を見ることがあるんだよな。
仕事は権利じゃなくて価値の対価だよと思うんだけれども。
その場にいる存在価値を自分で示せなければ去るしかない。
俺も今の会社でそう覚悟もって仕事してるんで、月単位での受注「0件マン」だけは避けるようにしている。
もし俺が「0件マン」になってしまったら、会社を追われても文句言えないしな。
まあ仮に年に1回「0件マン」の月があったとしても、他で盛り返すかトータルで上位であればどうにかはなるけれども。
それすらできなくなったら、営業として俺も終わりだしな。
そんなことを、絶対に断れなさそうなタイミングで隙あらば間髪入れずに営業してくる飲み屋の娘を見て思ったんだよな。
でも仕事という物に対しての意識が高くて、個人的にはそういうスタイルの人の方が人間として好きなんだよな。
先ほどの新人女性社員は仕事の意識の認識がないから、何か月か後に約束のネバーランドで言う出荷をされてしまうんだろうなあ
でも、救いたくても救うことはできないよな、道理と筋から考えればそれが必然だし、助かるとしたら本人がそれを理解して結果を出すしかない。
本題の前にそんな前置きをしてしまったんだが、俺は考え方として結果を起点に物を考えている。
繰り返しになるけれども、言葉には嘘があるけれども行動と結果には嘘がない。
結果というのは望ましいものであれば、その望ましい結果を出している人のやっている行動は正しいとなる。
逆にどれだけ正しそうな理論でも結果が伴っていなければ間違っていると思うのだ。
だから結果が自分にとって正しいかどうかで、その人が正しいかどうかを貼判断した方が間違えないと思うのだ。
寺社とか宗教もそうだけれども、基本的に意味がない物も生き残れない。
考えてみれば伝統で残っている物も意味があるからこそ生き残っているのだ。
どれだけ荒唐無稽で不毛に見えたとしても本当に意味が無かったらとっくに滅んでいる。
それでも結果的に何百年、何千年生きている物があるとすれば、それなりの意味があるという事だと思うのだ。
何百年、何千年生き残ったという結果を出しているのだから。
経営的にもどういう結果が得たかを重視する必要があると思うのだ。
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