アリアドネの糸玉を手繰り寄せれば

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こんにちわ、地下鉄吉野町駅最寄りのカラオケBARキャビーヌの中島です。

 

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たどり着く迷宮の出口も入口も結局はマインドなのかな。

こんにちわ。

地下鉄吉野町駅近くのカラオケスナック「ミュージックパブキャビーヌ」の店長中島です。

さて、タイトルのアリアドネの糸と言えば有名なギリシャ神話の身体が人間で頭が牛という怪物ミノタウロスが閉じ込められていたという迷宮、ラビリンス(ラビュリントス)の話だ。

まあゲームでよく出てくるモンスターの一つなのでご存じの方も多いだろう。

ラビリンスを作ったのはダイダロスと言われており、小学生の音楽の授業でやった「勇気1つを共にして」という曲を思い出す。

これはNHKのみんなのうたで1975年に放送されていて、小学校の音楽の授業で合唱した記憶が残っている。

歌詞をそのまま引用すると

昔ギリシャのイカロスは
ロウでかためた鳥の羽根(はね)
両手に持って飛びたった
雲より高くまだ遠く
勇気一つを友にして

丘はぐんぐん遠ざかり
下に広がる青い海
両手の羽根をはばたかせ
太陽めざし飛んで行く
勇気一つを友にして

赤く燃(も)えたつ太陽に
ロウでかためた鳥の羽根
みるみるとけて舞い散った
翼(つばさ)奪(うば)われイカロスは
墜(お)ちて生命(いのち)を失った

だけどぼくらはイカロスの
鉄の勇気をうけついで
明日(あした)へ向かい飛びたった
ぼくらは強く生きて行く
勇気一つを友にして

youtubeの埋め込みがあったので曲を埋め込んでおく

アリアドネにラビリンスの脱出方法を教えたダイダロスは息子のイカロスと共に塔に幽閉されてしまうが、蝋で固めた人工の翼を作り、息子のイカロスと共に空を飛ぶことで脱走を試みる。

そして、父ダイダロスはイカロスに「蝋が湿気でバラバラにならないように海面に近付きすぎてはいけない。それに加え、蝋が熱で溶けてしまうので太陽にも近付いてはいけない」と忠告した。しかし、自由自在に空を飛べる事で調子に乗ってしまったイカロスは高く高くと舞い上がり、太陽の熱で蝋が溶け墜落死するという驕れる者久しからずの典型のような結果になる。

まあ、いきなり余談が長かったけれども、そしてまだ余談が続くのだけれども・・・

そのギリシャ神話に出てくるラビリンスだが、実際にモデルが存在しており、それが実際にクレタ島にあるクノッソス宮殿の地下の迷路がモデルとなっている。

神話だとこの迷宮は脱出不可能と言われており、ギリシャ神話の英雄テセウスがミノタウロス討伐を引き受けたときに、迷宮から脱出できるようにと王女アリアドネから糸玉を受け取り、これを入口の木に括り付け、ミノタウロスを討伐した後にその糸を辿って行って脱出ができたという話だ。

まあ、実際はどんな迷宮でも右手か左手をその触れる側の壁に添えながらずっと歩いていけば最終的には必ず出口に着くんだけれどもね。

そう、ここまで書いた分全部、余談で、言いたかったことは堂々巡りする迷宮も最終的には入り口という名の出口に戻ってくるんじゃないかという話。

どういうことかというと、あれやこれや考えていても、最終的にはほぼほぼすべては自分のマインド次第で、心の持ちように帰結するんじゃないのと思ったのだ。

もちろん、物理的な話もあるけれども、その物理的な物も自分のマインドによる行動や雰囲気や、選択や受け止め方、考え方で機会も含めて変わってくるんじゃないかという精神論だ。

昭和天皇の言葉を借りれば物資に限りはあれども精神に限界などないというやつ。

同様に戦国時代で武田信玄の菩提寺が織田信長に焼き討ちにあったとき、そこの和尚の快川紹喜が

「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼」

安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火おのずから涼しと言い残し、そして自ら燃え盛る炎の中に身を投じたという精神の話と同じだ。

いやさ、別に何者かになりたいとか全く思っていないんだけど、それでも時間と経済力は自由にしたいよねと思っている。

その結果を得ようとすると、結果的に何者かにならなければならないのかもしれないが、じゃあ何者かになろうと考え行動するのが俺の求める結果に対して正しいか正しくないかなんだよな。

正しいも、正しくないも基本的にはないんだけれども、結果に対してのアプローチとしては正誤は存在していると思うのだ。

上手くいく方法と上手くいかない方法は。

で、そう考えていくと、今結果的に何者かになっている人々はそもそも何者かになろうとしていたんだろうかとふと思ったのだ。

矢沢永吉氏はそうなろうとしてなった稀有な存在かもしれないが、でもひろゆき氏にしろ、ビルゲイツにしろ、ウォーレンバフェット氏しにしろ、彼らは何者かになろうとしてうまくいったわけじゃないんじゃないかと思ったのだ。

自分のやりたいことや、こうしようと思ったことを継続した結果、結果的に何者かになっただけで。

そう考えると、前回のネタの話の延長になるんだけれども、結局重視すべきはその日、その日のナウなんじゃないかと思うのだ。

よく言われている言葉で真理だなと思う言葉の一つに、自分を大事にできない人間が他人を大事にできるはずがないという言葉がある。

確かに、満たされている人間ならその余剰分で人を満たせるかもしれないが、自分が欠乏していたらそんな余裕なんかないよな。

不足や飢えに喘いでいる人が、人に食料を優先的に与えようとはしないのと同じで。

同様にさ、今日という日が最善や選択肢の中で考えられる最高の一日にできない人間が未来を最高や最善の未来にできるはずがないよなと。

となると、まんま前回のネタと被るかもしれないが、毎日の最善の積み重ね、できる範囲の最高の一日の積み重ねが、より最善や最高の未来を作り出す選択肢を生むのではないだろうか。

逆に言えば、今を疎かにして先だけ見てもそもそも望む選択肢が得られないのではないか?

だとしら、マインドを変えて、今日という日、今をどうすれば最善にできるかだけに注力したほうがいいんじゃないか。

今この時、どうすれば楽しいか、良い一日にできるか。

俺にはラッキーしか起きないと決めたのに、先を見ることでそれを刹那的に忘れていると思わされたんだよな。

だとしたら、何が起きてもラッキーに変換できるし、ラッキーしか起きないんだから、その時好き勝手に最善だと思えること、やりたいと思ったことをし続けたほうがいいんだよな。

結果視座がの座標が高くなり、見える物が変わったりするかもしれない。

そもそも、先を憂いるって自分自身に対する過小評価だと思うのだ。

傲慢に聞こえるかもしれないが、今まで普通の人が心折れるだろうことも、どんなピンチも俺は全部こなしてきたんだよな。

なんとかしてきた。

言い換えれば、俺は本当はどうにかできるのにも関わらず、何とかならないかもしれないと己を過小評価し、まったくもって恐れる必要がないことを恐れていたと思うのだ。

だとしたら、やはりマインドの問題で、今日の最善を繰り返していけば放っておいても、どうにかできる。

そんなことを糸玉をたどって迷宮から出たと思ったときに思わされたのだ。

堂々巡りだなと思いがらも映画CUBEのように、幸せの青い鳥の話のように、答えは入り口と同じなんじゃないか。

心の持ちよう一つだなと。

だから、再認識というか、俺にはラッキーしか起きないし、何が起きてもラッキーに変換できるし、そしてその日の最善を繰り返していれば望む結果を手にできるとそんなことを思わされたのだ。

やれることをやってりゃいいし、結果に否定されるまではあれこれ余計な他者の事など考えずに自分が正しいと思う事をしていればいい。

結果に否定されたら考えればいいだけの話。

まあ、そんなわけでやはり毎日美味い物を食べるのは最低限必要だなとか思わされた。

明日は再び横須賀だし、何食べてやろうかな

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